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ひまわりさんの日々の信仰日記と再臨信仰のエッセンスについてご紹介しています

屈服の意味 第5回

2015年07月01日 | 日記

このような心が私たちに起こる時、その時私たちの救い主がお救いになるのです。多くの人はこういうのですね。私はそれなりにちゃんとしていると。まあ、勉強もうまくやっているし、試験もちゃんと出来ているし、仕事もちゃんとやっているし、まあ、友達にもそこそこ親切にしているし、そのように思っている時には、私たちは屈服することはありません。主の前に行く時に、何かをするのではありません。何か物を捧げることでもありません。屈伏とは、自分自身が本当に駄目であることを、その事実を主の前に捧げることを屈服と言うんですね。戦っても戦っても、力を尽くしても、やってもやってもダメだ、という事実を深く認識する時、自分自身の力で出来ないことを認識する時、屈伏が始まります。

皆さん、ヤコブは神様と格闘しましたね。ヤコブはヤボクの渡しの前で、自分の力ではもうどうすることも出来ない状況に陥った時、祝福を求めて神様と格闘しました。罪深く間違いを犯した人間が、謙遜と悔い改めと自己降伏によって神様の祝福を得ることが出来るようにされました。そのとき彼はイスラエルという新しい名前を受け、新しい存在とされたのです。

これは私たちも同じなのです。これ本当は、私たちの経験となるべきものです。私自身が作る義というのは、私自身の努力というのは、本当に汚れた衣です。私たちは義なるものを作り出すことはできません。

ですから、エレミヤ書23章にこうあるのですね。5節から6節。「主は仰せられる、見よ、わたしがダビデのために一つの正しい枝を起す日がくる。彼は王となって世を治め、栄えて、公平と正義を世に行う。その日ユダは救を得、イスラエルは安らかにおる。その名は『主はわれわれの正義』ととなえられる(23:5、6)。主は誰の正義ととなえられると書いてありますか。

主が我々の義、神様が私の義、神様が私の主となり、神様が私の価値、神様が私を屈服させる方、神様が私の幸福、神様が私の満足となる、このようなことを言っているのですね。神様が私たちの義、神様が私の義となられる、この時私たちは初めて義とされるのです。父が私の義となって下さるように、私たちはイエス様の義を受ける必要があります。

私たちは、勝利しようと一生懸命力を尽くしてやればやるほど、自分に力がないことが分かります。皆さん挑戦されたことありますか?私はそうでした。一生懸命、力をつくし神経をすり減らして、罪を犯さないように頑張って、意志を働かせて勝利しようとすればするほど、どうですか、その敵に勝てないということが分かるのです。