霊的な戦いの武器
次にコリント第二の手紙10章3節からお読みします。
「わたしたちは、肉にあって歩いてはいるが、肉に従って戦っているのではない。わたしたちの戦いの武器は、肉のものではなく、神のためには要塞をも破壊するほどの力あるものである。私たちはさまざまな議論を破り・・・」。
私たちが自分の心の中から湧き上がってくる誘惑や、悪魔の試みや挑戦の誘惑、これらのすべてのものと戦うことは、肉に従って戦っているのではないとパウロは言いました。私たちの戦いの武器は、肉のものではなく、神のためには要塞をも破壊するほどの力あるものである。私たちはさまざまな議論を破ると言っています。
10章5節、「神の知恵に逆らって立てられたあらゆる障害物を打ちこわし、すべての思いをとりこにしてキリストに服従させ・・・」
皆さん!これは霊的な闘いであり、その武器は目に見えるものではありません。これは神様の武器であり聖霊の武器です。私たちの中にあるすべての考え、思いまでも捕らえて集中させ、イエス・キリストのみ前に服従させる力です。「神の知恵に逆らって立てられたあらゆる障害物を打ちこわし、すべての思いをとりこにしてキリストに服従させ」るようにするものです。神様の御心にかなうようにしてくれるのです。
10章6節、「そして、あなたがたが完全に服従した時、すべて不従順な者を処罰しようと、用意しているのである」。
主のこの強力な武器は、私たちの中に入って来て、私たちのすべての衝動を制御して、私たちの考えとすべての願いを掴んで服従させるので、私たちの感情、考え、意志、欲望、希望、計画、すべてのものが本当に主のみ前に服従し、屈服させられるのです。そして、あなたがたが完全に服従した時、すべて不従順な者を処罰しようと、用意しているのであると言われています。つまり、神様の民の心が、完全に主に屈服して服従するようになった時、イエス様はこの地に審判を下し、義人を迎えるために、この地に再臨なさることが出来るのです。
神様のあがないのみわざ、神様のみ子が屈辱の道を歩み、十字架に架けられ、完成されたこのあがないの働きはどれほど強力なものでしょうか?それは、罪を犯して滅びて当然の人間を、立ち上がらせ、罪に勝利させ、永遠のみ国に至らせるものなのです。これこそが福音の力です。
イエス様は罪人の身代わりとして、十字架のあがないのいけにえとなられました。私たちと同じ堕落した肉の性質を持って来られて、私たちと同じように、いやそれ以上に強い誘惑を受けられましたが、罪は犯されませんでした。神様のいましめを完全に守られました。
しかし、問題があります。私たち人間もそのように出来るのでしょうか?どうでしょうか?神様が私たちを義とされる時、主ご自身も義となられると言われています。神様が私たちを赦し、私たちの服従が全うされ祝福されるだけではありません。「ああ、神様は正しいお方だ!主の十字架と福音はこんなにもパワフルだ!神様が戒めを与えられたのは、この宇宙の安全と平和のためだったのだ!主が正しい!」。このような叫びが全宇宙に上げられるのです。