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ひまわりさんの日々の信仰日記と再臨信仰のエッセンスについてご紹介しています

屈服の意味 第8課

2015年07月04日 | 日記

 毎日自己に死ぬべきです

 

ある家族の話を聞いたことがあります。目の見えないお父さんと子供たちの話です。目が見えないのに子供たちを本当に良く育てたお父さんでした。子供たちが大きくなって成長してくると家庭の事情を理解するようになります。お父さんを助けてあげなければいけないと思うようになります。子供たちは、大きくなるといつも手を引いてあげて、何かをしてあげて、ご飯を食べやすいように手伝ってあげて、そうやっていたんですね。ところがその目の見えないお父さんは、子供に犠牲を払わせているようで逆につらかったのですね。それで子供に、このような話をしたそうです。私その話を聞いて本当に心に熱いものを感じました。

お父さんが、子供たちに聞いたそうです。「こんなお父さんでなくて、もっといいお父さんと取り替えたいと思わないか?他のお父さんがいいな、と思うことないかい?目が見えて、健康なお父さんが良かったんじゃないか?」と。その時子供たちが集まってきて、「お父さん、僕たちはお父さんほど素晴らしいお父さんを見たことがないよ。僕たちは、お父さんをどんなお父さんとも取り変えることはできないよ。お父さん、このままでいて下さい」。

皆さん、私たちがイエス様のうちに住むのは、このような理由なのですね。イエス様を知れば知るほどもう離れることは出来ない、イエス様から離れられなくなるのです。

イエス様は「私から離れては何もすることはできない」と言われました。皆さんちょっと考えてみて下さい。イエス様から離れて出来ないこととは何ですか?イエス様から離れても、たくさん出来ることがありますね。イエス様を信じていなくても、億万長者になることもできるし、勉強も頑張ることが出来ます。いろんな物を売ったり買ったり出来ます。私たちは多くのことを神様なくして、イエス様なくして出来ることがたくさんあります。

ですが、「あなたは私を離れて何も出来ない」と言われました。これは何を言っておられるのでしょうか。それは、私を離れては、たった一つの正しい義も、義の実を結ぶことも出来ない、とおっしゃったんですね。私を離れては、神様の前に認められるような義なる行為は何一つ出来ない、私を離れては全く不可能だと言われたのです。皆さん、このことは、私たちが本当に理解すべき事なのです。神様、私は何者でもありません、あなたが私のすべてとなって下さいと言って、主を本当に受けて、私のうちに住んでいただいて、私を義なるものとして造り変えていただくこと、これが屈服なのです。このことの必要を感じて求めないならば、私たちが心からそれ望まないならば、屈伏することは出来ません。私たちは、毎日、本当に自己に死ぬべきものであることを悟るべきです。