ミューリアルのこれらの講義は、キリスト教の背景を持つ私にとって非常に説得力があるように聞こえました。キリスト教会では、肉の欲求と良心に聞こえる聖霊の声の間での葛藤があり、ニューエイジの運動では、低自我と、マスターを介して高等自我に語られる神の意志との間に葛藤があることを知りました。しかしその時私は、この両者の間には実はあまりにも大きな違いがあるという事実を知りませんでした。聖書で言うクリスチャンの瞑想は、神の言葉である聖書の御言葉で心を満たし、それを深く味わい、その中で神の御心を発見することですが、ニューエイジの瞑想は、心を完全に空にし、その空いた心に聞こえてくるマスターの声を聞くことです。サタンは、人間の空になった心に入って、自分が望むメッセージを勝手に吹き込みます。この時、人は自分の心の中から聞こえてくる声を、完全に神の声として受け入れます。ですから、その声が、聖書の言う真理と食い違うことがあっても、何の疑いもなくそれを神の意志として受け入れてしまうのです。
現代の聖霊カリスマ運動のように、奇跡を追求し、感情的高揚を信仰だと思っているクリスチャンたちが、祈りや瞑想、そして夢判断などを行い、それらのことを聖書的に検証することもせず、無条件に神の啓示として受け入れているように、ニューエイジの人たちも、マスターが高等自我にささやくすべての声を無条件に神の言葉として受け入れます。その結果、ニューエイジの瞑想に深く陥っている人は、サタンの声を、ためらいもなく神の声だと受け入れる驚くべき欺瞞の中に陥るようになります。私はニューエイジで学んだ瞑想を通じて空になった私の心を、完全にサタンの手に差し出すという致命的な過ちを犯すことになりました。