神様の義を得る経験
ここで少し整理したいと思います。屈伏するというのは、私たちが神様から離れて自分自身では、たった一つの純粋な正しいことも作り出せないということを認めることです。屈伏とは、自分自身にはどんなに正しい行為、どんなに正しい動機も作り出すことが出来ないことを認めるということなのです。
ローマ人への手紙を見てみたいと思います。ローマ人の手紙10章2節から3節。「わたしは、彼らが神に対して熱心であることはあかしするが、その熱心は深い知識によるものではない。なぜなら、彼らは神の義を知らないで、自分の義を立てようと努め、神の義に従わなかったからである。キリストは、すべて信じる者に義を得させるために、律法の終りとなられたのである」(10:2-4)。
この律法の終わりとなられたという言葉は、律法を完成させたという意味なのです。主のうちにあって律法の完成があるのです。次にローマ人への手紙書8章4節を見てみましょう。4節です。「これは律法の要求が、肉によらず霊によって歩くわたしたちにおいて、満たされるためである」。ここに「満たされるため」、とありますが、これは「成就される」ということです。これが「律法の終わり」という言葉の意味です。イエス様が律法を完全に守られたように、御霊によって歩く私自身が、律法を守ることが出来るようにして下さるということなのです。そのことを成就して下さることなのです。
私たちが心から神様に従おうとする時、自分自身が何者でもないことがわかります。 私たちは、正しく生きることも、聖なる生き方をすることもいっさい出来ない者であることがわかるのです。
英語にはこのような表現があります。「自分自身のうちに神様の前に持ち出せる義は何もない」という言葉です。これがユダヤ人たち、パリサイ人たちの問題だったのです。彼らは自分自身の義を立てようと努力していたのです。彼らは神様の義に従おう、神様の義を満たそうと全力を尽くした人々なのです。ところが、あること、ある物を捧げることと、自分自身を屈服させることの間にはものすごい差があるのです。
皆さんどうでしょうか。意志が強い人は義となることが出来るように感じませんか?ある人は意志が弱いのですね。ある人は意志が弱くて失敗ばかりしています。そこで、あの人は意志が強いから正しい事が実行できるのだと感じています。ところが神様にとっては、どちらも関係ないのです。神様の見られる義と言うのは、意志の力というのは、そういったものではありません。
神様の義とは、私たちが心の底から主に呼ばわる時に与えられる、純粋なイエス様の動機によって求める者に与えられる神様の義なのです。私たちの行動とか反応ではないのです。神様が与えて下さる、神様の義であるイエス様と共に暮らす義なのです。神様が義と認められるのは、ただこれだけなのです。聖霊の力によってのみこの義は起こるのです。私たちはイエス様の義、イエス様の石の上に打ち砕かれて初めて、この義が与えられるようになるのです。