信仰と努力
神様は、選択する力である自由意志を与えて下さったのですけれど、私たちは本質的に自分の力で性格とか欲望とか感情を変えることは出来ません。私自身を神様に仕えるものとすることは出来ません。そのように歩むことが出来ないのです。ですが、私たちはイエス様に仕えようと選択することは出来るのですね。幸いなことに、私たちは意志のすべてを主に捧げることは出来るのです。意志を神様に向けるならば、神様を選ぶならば、その方が深い御心に従って、その内に支えて下さって、すべての性格をキリストの支配下に置いて下さって、清めて下さるのです。意志を捧げることと神様の力によって、生き方に新しい変化が生まれます。屈伏によって、私たちの意志が、神様の力と結びついて新しい人生が始まるのですね。すべての欲望と弱さと衝動が神様の力に屈服して、聖霊に導かれて行くようになるのです。このことは全ての人に可能になるのです。(ローマ8:1~4参照)
皆さん、私たちにとって努力することは必要でしょうか?ある人はこういいます。「私たちは信仰よって義とされ、信仰で救われるのですから努力は必要ないです」と。本当にそうでしょうか。私たちの救いにおいても、努力、聖なる者になるための努力が必要なんです。なぜなら、パウロが、「信仰の戦いをりっぱに戦いなさい」(1テモテ6:16)と言っているからです。「目標を目指して走り」(ピリピ3:14)、「わたしがすでにそれを得たとか、すでに完全な者になっているとか言うのではなく、ただ捕えようとして追い求めているのである」(ピリピ3:12)と言っています。私はそれを得ようと常に努力していると、パウロは言いました。他の人に福音を伝えながら、自分が滅びることがないように、パウロは自分自身を屈伏させ、打ちたたいているとも述べているんですね。(1コリント9:27)
この世の中の人たちが、どれほど虚しいもののために努力しているでしょうか。それを考えれば、永遠のものを得ようとして、私たちが努力しないということがあるでしょうか、屈伏が必要なのです、屈伏とは、何か感情が高められて、すごく綺麗な音楽が流れて、感傷的な気分が満ちるような、そういうものではないですね。屈伏とは、私が自分自身はもうだめだと思うこと、そしてイエス様の恵みと力と神様の計画に、その方法に、すべての自分の意志を捧げてそれに従うことなのです。
私たちにとって、祈ることは努力でしょうか。朝早く起きて祈ること、これ努力ですね。聖書を読むこと、努力でしょうか。努力ですね。辛い時、苦しい時、主の前にひざまずいて、「主よ助けて下さい」と祈ることは努力でしょうか?努力でなければ何でしょうか?努力が必要なのです。主に心を向ける事、この努力は行いによる義ではありません。
皆さん、車を運転している時に、右に曲がったり左に曲がったり、ストップしたり、信号や標識の通り運転しますね。皆さん、これ律法主義ですか。法律を守ることは律法主義になるのでしょうか。そうではありませんね。必ずしなければならないことです。飛行機を操縦する時、どうでしょうか、計器を見てその計器の言う通りに、目的地はこの方角だからそちらへ進む、速度計がこれくらいだから少し速度を落としたり早くしたり、そうやるのです。これが律法主義でしょうか、そうではありません。