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ひまわりさんの日々の信仰日記と再臨信仰のエッセンスについてご紹介しています

モーセの信仰より学ぶ 第5回

2015年07月14日 | 日記

    覆いを取りのけよ           

モーセは神様とお会いする時、恐れながらも喜んで主のみ前に進んで行きました。しかし、イスラエルの民の心の中には、本質的に神様に立ちする反逆の思いや、人に対する悪意、隣人を憎む者、金銭を愛する心があったので、神様の戒めの内容の崇高さを見た時、何度も後ろに退くことになってしまいました。
 モーセは主に義とされ光の中を歩んでいたので、その戒めの前に、喜んで進み出て行きました。民は暗闇の中にいて、光よりも闇を愛していたために、光の下に来ようとしませんでした。光にさらされると、闇は存在することが出来ないからです。

コリント人への第二の手紙3章13からお読みします。

「そしてモーセが、消え去っていくものの最後をイスラエルの子らに見られまいとして、顔におおいをかけたようなことはしない」。

モーセが山から降りてきた時、彼の顔は輝いていました。それで民たちは彼の顔を見ることが出来ませんでした。民はモーセに、顔に覆いをかけるように頼みました。それでモーセは顔に覆いをかけました。彼は頭全体を何かで覆いました。モーセの顔の輝きは、しばらくしたら消える光でした。モーセは神様ではないので、しばらくしたらその光は消えるのです。しかしユダヤ人にとって、戒めとは近づきがたい、罪人が目を背け、覆いをかけなければ見られないような光り輝くものでした。

布で顔を覆ったら前が見えません。それで使徒パウロは、モーセが顔を覆ったことを例にあげて、その当時のクリスチャンや現代のクリスチャンに対して、その心の中にある偏見、不信、疑い、そして神様の光や、恵み、真理の深さ、そうしたことを見ることが出来ず悟ることの出来ない状態を、覆いをかけられた姿として語っています。

「実際、彼らの思いは鈍くなっていた。今日に至るまで、彼らが古い契約を朗読する場合、その同じおおいが取り去られないままで残っている。それは、キリストにあってはじめて取り除かれるのである」(2コリント3:14)。

この古い契約とは何のことでしょうか?使徒パウロはこれを、旧約聖書の律法とイエス・キリストの十字架のこととして語っているのです。旧約聖書には十戒以外にモーセの律法と呼ばれる儀式律法や民法などがありました。十戒は石の板に書かれ、至聖所の契約の箱の中に置くようにされていましたが、モーセが羊皮紙に書いた数多くのモーセの律法は、その巻物を十戒の契約の箱の横に置くようになっていました(申命記31:26)。

使徒パウロは今ここで何を言っているでしょうか?モーセの儀式律法は、祭、聖所制度、断食日など、彼らが宗教生活を営む上で守るべき教えがたくさんありました。このような儀式律法というのは、実は、イエス・キリストの地上における働き、その役割を示していたのです。

たとえば、種入れぬパンの祭(過越祭)は、イエス様が十字架に架けられたので、民は罪のない生活をしなければならないことを表していました。初穂の祭(揺祭)は過越祭後に初めて収穫した初穂を揺り動かして主に捧げ、その後の収穫を期待するものでした。それはキリストが全人類の初穂として捧げられ天に上げられて、五旬節において聖霊が臨まれ、福音伝道の素晴らしい収穫の働きが開始されることの象徴でした。