従順とは動機の問題
ところで意志が強い人は、タバコを意志の力によって止めることが出来ます。自分の力によって、いろんな世の習慣を捨てることも出来るのです。その力によって酒を止めることが出来る人もいます。また、自分の評判をよくするためにたくさんの寄付をすることも出来ます。皆さん、世の中には慈善心に富んだ人がいて、ものすごい額の寄付をする人がいます。ではそれによって、その人たちが神様の前に義とされたかというと、そうではありません。ある人々は自分の評価のために、ものすごく善良な人に見えるような生き方をします。ところがそれは、イエス様が言われた義とは全く関係のない生き方です。
多くの人々が自分の評価のためとか、自分の子供のため、自分が認められるために、正しい立派な行為をしています。人から悪く思われないために、外見的には道徳的な生き方をしているのです。ところがイエス様はそのような義を認めておられません。私たちが屈服して意志を捧げること以外に、神様の義を得ることは出来ません。
ですから、ここはよく聞いてください。一生懸命努力して、一生懸命力を尽くして研究して、外面的には最も正しい人、善良な人のように見えるかもしれませんけれども、その人が実際に自分自身の心を、全面的に屈服させられる経験がないなら、一度もイエス様の石の上に落ちて砕かれたことがないなら、その人は、最もイエス様から離れている人である可能性があります。そうです、あの、「罪人のわたしをおゆるしください」(ルカ18:13)と祈った取税人よりも、立派な行いをして誇っていたパリサイ人の方が神様から遠かったのです。それは、自分の正しさ、誇りがあるかないかの違いですね。ですから真の従順とは、動機の問題なのです。何かの行動とか行いのことではありません。神様はそういう外面をご覧になりません。
ある人がこういうことを言っていました。「私の夫は何でも買ってくれて、本当に良くしてくれるんですが、心が伝わって来ないんです。私がほしいものはそういうものではないんです」。そういうことがありませんか。多くのクリスチャンがそうなんです。ぶどうの木のたとえでイエス様が言われました。「わたしから離れては、あなたがたは何一つ出来ないからである」(ヨハネ15:5)。あなたは私から離れたら何もすることが出来ない、これが屈伏なんですね。私たちは罪人です。本当に罪人です。その自分の本当の姿を、神様に教えていただかなければなりません。