いさおなき我を
皆さん、「いさおなき我を」という讃美歌をご存知だと思います。私は、この讃美歌のことを思うといつもとても感動します。ビリー・グラハムと言う伝道者がいます。彼が説教を終える時、後ろから合唱、コーラスが入るのですが、よくこの賛美歌が歌われます。この讃美歌、私本当に感動を受けるのですね。この讃美歌の歌詞を書いた人は有名なソプラノ歌手で、シャーロット・エリオットと言う人です。イギリスにいた人ですね。ある時、この人が音楽会を開きました、彼女はとても上手で、すばらしい演奏会でした。
この音楽会に、スポルジョン牧師という方が参加していて、彼女の歌を聞いていました。すばらしい音楽会だったので、人々はもう花をあげたり、おめでとう、素晴らしいですね、と彼女を褒めたのです。ところが、スポルジョン牧師はこのように言ったのです。「姉妹、姉妹の歌も声もとても素晴らしいと思います。ですがひとこと言いたいと思います。姉妹の歌には恵みがありません。とても上手なのですが、心に感動が来ません。神様の恵みを感じられないのです。もしあなたが本当にイエス様に心をささげるなら、あなたの歌を通して多くの人をイエス・キリストに導くでしょう。私は今日から、あなたのために心から祈ります」。そのように言ったのですね。
その歌手は、もう夜眠れなくなりました。そして一晩中、朝が来るまで神様との交わりの中で祈り、ついに自分の全てを捧げて、生まれ変わる経験をしたんです。朝、もう涙を流しながら書いたのがこの、「いさおなき我を、血を持てあがない、イエス招きたもう みもとに我いかん」という讃美歌の歌詞だったのです。やがてこの歌は、父なる神様の前に心をささげる時によく歌われる、献身の歌となりました。
皆さん、私たちが人々に出逢う時に、その人をイエス様に導けない理由は、私たち自身が、心をイエス様にささげる経験、屈伏する経験、イエス様の石の上に落ちる経験がないからなのです。私たちが、持っているものすべてを主の前にささげて、屈伏していないから、人々に良い感化を与えることが出来ないのです。私たちが心を主に捧げることの意味を、毎日、毎日、深く理解し、体験できるように祈りたいと思います。
お祈りいたします。
父なる神様、私たちがイエス様の石の上に落ちて打ち砕かれて、私たちが完全に打ち砕かれて、神様の御国の実りになるように助けて下さい。私たちの力ではたった一つの義も作り出すことが出来ないことを、しっかりと深く悟り、神様の前にひざまずき、ひれ伏して「主よ私はここにいます、主よ、私の心を受け取ってください」と祈ります。そして、約束して下さったお恵みによって、主よ、もう一度私をあなたの器として用いて下さい。イエス様の品性が私たちの内に現されるようにして下さい。天の神様、私たちは本当に神様の恵みが必要です。毎日、毎日、神様の恵みの必要を深く感じて祈る者とならせて下さい。私たちは本当に神様の恵みなしに、義となることが出来ないことを毎日感じられるようにして下さい。主の前に立つその日まで、毎日、毎日、私たちが心を主に捧げて歩んでいくことが出来るように助けて下さい。愛するイエス様のみ名によって、心からお祈りいたします。アーメン
「 屈服の意味」最終回です。 次のメッセージをお楽しみに。