キリストに似るもの
私たちが正しい知識に基づいて生きることは、律法主義ではなく、正しい事なのです。屈伏もそうです。神様の御心に従って生きる人が、屈服した神様の民なのです。多くの人が信仰を間違って理解しています。信じていれば何の努力もいらないと考えています。しかし、信仰によって聖なる者となるためには、必ず信仰の努力が必要になるのです。もう1か所読みたいと思います。『新生への道』(キリストへの道)という本に、このようにあります。
「毎朝、神に自分を捧げ、最初の務めとして、次のように祈りましょう。『主よ、しもべのすべてをあなたのものとしてお受け入れ下さい。私のすべての計画をあなたのみ前におきます。どうか、しもべを今日もご用のためにお用いください。どうか、私と共におられて、すべてのことをあなたにあってなさせてください』と。これは毎日のことです。毎朝、その日一日、神に献身して、全ての計画を彼にお任せし、摂理のままに実行するなり、中止するなりするのです。こうして、日ごとに生涯を神のみ手にゆだねる時、あなたの生涯がもっとキリストの生涯に似てくるのです」(90p)。
私たちが自分のことを考えるなら、イエス・キリストから離れてしまいます。私たちには常に、イエス様から目を離そうとする反対の勢力が働いています。イエス様から引き離すために、他人の罪や欠点に目を向けさせたり、自分の欠点だったり、世俗の楽しみを与えたり、苦しみや試練だったり、不安だったり、このようなすべてのことを通して、私たちの心をイエス様から引き離そうと企んでいるのですね。このようなサタンの仕掛ける罠がたくさんあります。そこに陥ってはなりません。サタンは良心的に神様のために生きたいと思っている人々にも、弱さや欠点を通してイエス様から目を離させようと、イエス様から目をそらそうとしてきます。私たちは自分を中心に考えて、自分が救われるとか救われないとか考える必要はありません。そういったことを考えても私たちの力にはならないのです。私たちの魂をイエス様に捧げ、イエス様について考え、イエス様について語り、イエス様のうちに自分自身を忘れてしまいましょう。そして使徒パウロが言ったように、「生きているのは、もはや、わたしではない。キリストが、わたしのうちに生きておられるのである。しかし、わたしがいま肉にあって生きているのは、わたしを愛し、わたしのためにご自身をささげられた神の御子を信じる信仰によって、生きているのである」(ガラテヤ2:20)と言いましょう。神様に頼る人、神様に全てを任せる人を、神様は必ず守って下さるのです