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ひまわりさんの日々の信仰日記と再臨信仰のエッセンスについてご紹介しています

モーセの信仰より学ぶ 第7回

2015年07月16日 | 日記

    覆いを取られたパウロ

ダマスコへ行く途中で、パウロがイエス様に出会った後、目が3日間見えなくなりました。それからアナニヤが彼のために祈ると、パウロの目からうろこのようなものが落ちました。自分の顔を覆っていた覆いがすっかり取り除かれました。それまで、パウロがそれなりに知っていた儀式律法や断食の日や幕屋制度、大贖罪日などの本当の意味が、急にはっきりと理解できるようになり、新しい光に近づいたのです。神様の深い真理を理解するようになりました。彼は3日間全く目が見えない状態でしたが、その後彼の霊的な目が開かれました。そして、ほんとうの神様のみ姿を見ることが出来るようになりました。イエス様が見えました。そして罪人を赦して下さるイエス様の愛に深く心を動かされて、彼は自分のすべてをふん土のように思って、キリストのためにだけ生きると言うようになりました。 

私たちの心の覆いが取り除かれたら、神様の栄光の輝きが見えて、私のすべてを捧げ、主のために生き、私のすべてを屈服させるようになります。神様の戒めに完全に従って生きることが楽しいことになります。戒めに従うことは絶対に難しくなくなるのです。

「主は霊である。そして、主の霊のあるところには、自由がある。わたしたちはみな、顔おおいなしに、主の栄光を鏡に映すように見つつ、栄光から栄光へと、主と同じ姿に変えられていく。これは霊なる主の働きによるのである」(Ⅱコリント3:17,18)。 

私たちが主のみ言葉を静かに瞑想すると、心の目に神様が見えるようになります。罪に満たされていることが見えるようになり、十字架の意味が見えるようになり、罪への勝利が見えてきます。み言葉をじっと見ていると、新しい光が私たちの心の中に入ってきます。

 私たちの信仰は、聖所の外庭の経験を経て、聖所の中に入り、それから、主に従って至聖所に入り、神様のシェキーナの栄光、神様の臨在の象徴である契約の箱の前にまで進むまなければなりません。

神様は異邦人にも、自然界の色々な事物を通して、神様の偉大さと愛を啓示して来られました。自然界の教えを通してでも、誰も言い訳ができないほど、神様の道は明らかなものなのです。いっぽうユダヤ人たちには、預言者や律法など、異邦人たちに比べてはるかに具体的な導きと祝福を与えておられました。それはどれほど大きな恵みと特権だったことでしょうか。しかし彼らは、自然界よりももっと確実な啓示を持っていたのにもかかわらず、滅びてしまいました。なぜでしょうか?顔に覆いがあったからです。多くの人々が偏見や不信、世を愛する心を持っていたからです。

 

旧約聖書が指し示していたイエス様が来られた時、人々は、「これは異端の教えだ」と拒否しました。もちろん当時もたくさんの異端の教えがあったのは事実ですが、真理が語られる時も、人々は異端扱いするのです。私は、時にはこのように語っています。「異端だ、と言われる人々をもう一度よく見てください」と。どうしてですか?真理を伝えると異端になるからです。 最近では、「イエス様が再臨される」の「再」と言っただけで大変なことになります。