ですからヘブル4章14-16節には、次のように述べられているではありませんか! 「さて、わたしたちには、もろもろの天をとおって行かれた大祭司なる神の子イエスがいますのであるから、わたしたちの告白する信仰をかたく守ろうではないか。この大祭司は、わたしたちの弱さを思いやることのできないようなかたではない。罪は犯されなかったが、すべてのことについて、わたしたちと同じように試錬に会われたのである。」そうです。私たちが神様から赦しを受けて義とされても、依然として罪の誘惑と悪魔の攻撃は、私たちを襲っているのです。過去に犯した罪の習慣が私たちを支配しようと隙をうかがい、日々私たちを悩ませているではありませんか!しかし、私たちには希望があります。なぜなら、私たちとまったく同じ試練を受けられ、苦難の中で生きて下さった上で、イエス·キリストが私たちの弱さと日々の試練の困難をあまりにもよく知っておられるからです。主は「私たちと同じように試練に会われた」方であるがゆえに、私たちを助けてくださることができるのです。
主は、私たちの悲しみと苦痛を経験なさったばかりでなく、私たちが日々にあう試練と誘惑をも受けられました。使徒パウロは、キリストについて、「この大祭司は、わたしたちの弱さを思いやることのできないようなかたではない。罪は犯されなかったが、すべてのことについて、わたしたちと同じように試錬に会われた」と描写しました。パウロは、「だから、わたしたちは、あわれみを受け、また、恵みにあずかって時機を得た助けを受けるために、はばかることなく恵みの御座」がある天の聖所にはばかることなく近づこうと勧めているのです。
パウロは、天の聖所の中に私たちを襲う試みから助けられ、支えられる方法があることを見抜いていました。聖所の中にはクリスチャンが勝利の生活をおくることができる方法を教えるために考案された、神のアイデアが示されています。聖所の第一の幕屋の中にある金の燭台とパンの机と香壇は、そのような神のアイデアが具体的に何なのかを象徴的に述べている器具です。聖所の中にある器具は、すべて純金で作られていましたが、それは純潔な信仰を象徴するものです。聖所の第一の幕屋にある器具が純金で作られたのは、聖所の庭にある祭壇と洗盤が二つの金属の合金である青銅で作られたものと対照をなしています。聖所の外庭で悔い改めの経験である祭壇で罪を燃き尽くし、洗盤の水できれいに洗って聖くされたクリスチャンは、その次の段階に入ります。それは、愛によって働く純潔な信仰経験を持つということです。その事実を象徴的に教えるために、聖所の中の器具が純金で作られたのです。
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