儀式律法を与えられた理由と永遠の戒め
アダムの時から始まった、動物の犠牲制度は、彼の子孫によって大きく曲解されました。た。周辺の異邦人から受け入れた迷信、偶像崇拝、放蕩により、神が指示された単純な意味を持った犠牲制度の意味を失ってしまうことになりました。そこで神様はモーセを通して聖所で維持されるべき礼拝形式の完全な指示をお与えになり、モーセは神様が与えられる儀式律法を本に記しました。この犠牲制度に関する律法を新約聖書では、礼典の律法(Ceremonial law)と呼んでいますが、十字架の上で廃止された律法は、まさにこの儀式法を意味します。
もう一つの律法は、神様がシナイ山で二つの石の板に自ら刻まれた十戒ですが、これは聖所の第二の部屋、至聖所の中の契約の箱の中に神聖なものとして保管されました。十戒は神様の道徳的品性とそのみ心が記録されている道徳律(Moral law)です。これは合わせて10個の戒めになっていますが、前半の4つの戒めには、神への忠誠と愛が書かれており、後半6つの戒めには、人々の間で守らなければならない道徳と愛が書かれています。
動物の犠牲制度について記された儀式律法は、世の罪を取り除く神の小羊であるキリストの死によって、儀式制度の目的とその完全な意味が実現されるまで存在するようになっていました。なぜなら、イエス様が十字架で亡くなられたことによって、これ以上羊を捕まえて殺す犠牲制度が不必要になるからです。したがって、使徒パウロは、儀式の律法をキリストが「これを取り除いて、十字架につけてしまわれた」。と記録しました(コロサイ2:14)。しかし、十戒の律法について詩篇記者は、「主よ、あなたのみ言葉は天においてとこしえに堅く定まり」と記録し(詩篇119:89)、キリストは「わたしが律法や預言者を廃するためにきた、と思ってはならない。廃するためではなく、成就するためにきたのである。 よく言っておく。天地が滅び行くまでは、律法の一点、一画もすたることはなく、ことごとく全うされるのである」と宣言されました(マタイ5:17,18)。したがって、使徒パウロは、「このようなわけで、律法そのものは聖なるものであり、戒めも聖であって、正しく、かつ善なるものである」と言っています(ローマ7:12)。
救い主の死は儀式の律法の終わりでしたが、道徳律である十戒の、人類に対する義務は少しも減らされることはありませんでした。むしろ人類に下された律法の罪状と刑の執行のために、天の王であるキリストが死なれる必要があったという事実は、律法の要求とその権威が少しも変わっていない事実を、私たちに証ししています。ですが、儀式の律法が十字架で廃止されたとしても、犠牲制度に含まれていた貴重な意味は、今日に生きる私たちにとって非常に重要な福音を伝えています。まさにそれが聖所に込められた福音なのです。