3.聖句で確認する天の聖所
天の聖所は、地上の聖所の原型
1原型の天の聖所:
「彼らは、天にある聖所のひな型と影とに仕えている者にすぎない。それについては、モーセが幕屋を建てようとしたとき、御告げを受け、「山で示された型どおりに、注意してそのいっさいを作りなさい」と言われたのである」(ヘブル8:5)。
2本体である天の聖所:
「このように、天にあるもののひな型は、これらのものできよめられる必要があるが、天にあるものは、これらより更にすぐれたいけにえで、きよめられねばならない。ところが、キリストは、ほんとうのものの模型にすぎない、手で造った聖所にはいらないで、上なる天にはいり、今やわたしたちのために神のみまえに出て下さったのである」(ヘブル9:23,24)。
天の聖所(第一の部屋)の様子
1聖所で奉仕されるキリスト:
「そこでわたしは、わたしに呼びかけたその声を見ようとしてふりむいた。ふりむくと、七つの金の燭台が目についた。 それらの燭台の間に、足までたれた上着を着、胸に金の帯をしめている人の子のような者がいた。(黙示録1:12,13)
2聖所でとりなされるキリスト:
「また、別の御使が出てきて、金の香炉を手に持って祭壇の前に立った。たくさんの香が彼に与えられていたが、これは、すべての聖徒の祈に加えて、御座の前の金の祭壇の上にささげるためのものであった。香の煙は、御使の手から、聖徒たちの祈と共に神のみまえに立ちのぼった」(黙示録8:3,4)。
天の至聖所(第二の部屋)の様子
1ヨハネが見た契約の箱:
「そして、天にある神の聖所が開けて、聖所の中に契約の箱が見えた」(黙示録11:19)。
2ヨハネが見た天の至聖所:
「その後、わたしが見ていると、天にある、あかしの幕屋の聖所(至聖所)が開かれ、」(黙示録15:5)◈
聖所の体験と罪への勝利の道
山本和恵(2016/6/25)
以前、聖所の経験について証させていただきましたが、今回その続きを少し証させていただきたいと思います。デイビット・カン先生の「霊的な心」という説教の中で、先生が言われていることですが、私たちの思っていることが品性になる、言い変えれば、いつも何を思っているかで品性が決まってしまいます。
自分はそんな悪い思いなどないと、思われるかもしれません。でももし、口から、不平やつぶやきが出たとしたら、自覚するしないに関係なく、そのような思いを心にとどめているから、口から出るのです。私たちは、なんと多くの欺瞞に覆われていて、自分自身を正しく理解することができない者かと、つくづく思います。
私たちは、自分が自分をどう思うかではなく、神様がどのように私自身を見ておられるかという視点で自分自身を正しく知らなければいけません。
不平やつぶやき、それは思いの時に、すぐにイエス様に勝利させていただかないと、言葉になって出てしまいます。そのような言葉を出さないように、イエス様にあって勝利させていただかないと、ふてくされや怒りの行動となって出てしまいます。以前の私の生活はこのようなことの繰り返しでした。
これは罪だと、わかりやすい罪は、それなりに抵抗して、ある程度自分の力で気分を変えたり、理由や理屈をつけて自分を納得させて、罪から離れたように見えるのですが、いざというときには爆発して、本質的には全く変わっていないのです。また、そのことが罪だという深い自覚もないままに、罪を犯し続けていました。
たとえば、人に認められない、一生懸命やったのに感謝されない、そのような状況が起きると、気持ちが穏やかではありません。そのような反応は良い反応だとは思いませんが、どうにも抑えることができません。「なんで私を認めてくれないの」とストレートには言えないので、形を変えて表現し、爆発させます。相手を批判するという形であらわすか、暗くなるか、体調が悪くなるかして同情を引き、さらに相手を困らせ、心配させるという形であらわすのです。
今までの私は、ずーっとこのような者でした。でも聖所の経験を通して、「罪を敵とする心」をいただくという恵みにあずかってからは、違ってきました。人に認められない、感謝されない、批判される、そのような時、気持ちは穏やかではありません。時には悲しくて涙が出ることもあります。ここまでは同じです。でも、その罪の思いを、罪を憎む思いが上回るので、「私はこの思いには従いたくない」という叫びが上がります。そしてその叫びが、「愛は自分の利益を求めない」というみ言葉をとらえることができるように導かれます。そして、「私はこのみ言葉を選びます、主よどうぞこのあなたの心を、私のうちに根付かせてください」と叫び祈ります。するとその祈りは聞かれ、心に平安が与えられます。「各時代の大争闘」という本にこのように書かれています。
「人間のうちに、サタンに対する敵意を起こさせるのは、キリストが心の中に植え付けられる恵みである。この改変の恵みと更生の力とがなければ、人間は引き続きサタンの捕虜であり、常に彼の命令に従うしもべであるしかない。しかし、心の中の新しい原則が、これまで平和であったところに争闘を起こすのである。キリストがお与えになる力によって、人間は、暴君であり、横領者であるサタンに抵抗する力を得る。だれでも、罪を愛するかわりに罪を憎み、これまで心の中を支配していた欲望に抵抗して、それに打ち勝つならば、それは、全く上からの原則が働いていることを示している」。(電子版503p)
このイエス様の恵みにより、自分の思いに死に、み言葉を自分の経験にしていただくことを絶えずしていくことが、毎日の生活の歩みとなってきました。
黙示録14:7に「神をおそれ、神に栄光を帰せよ。神のさばきの時がきたからである。天と地と海と水の源とを造られたかたを、伏し拝め」と第1の御使いが大声で言ったと書かれています。この「神をおそれ」とは「罪を憎み、義を愛する心」をいただく恵みにあずかることです。また、「神に栄光を帰」すとは、その心をいただいて、罪から離れることです。
ではどうしたらそのことが可能になるのでしょうか。まず第1に、聖所を通して、神様が示された罪を処理される方法を十分によく知ります。それから第2に、聖所の外庭の経験で、罪を憎み義を愛していないことに心から気づかせていただきます。たいていの人は、自分は罪を憎み義を愛していると思っています。それから第3に、心から「罪を憎み義を愛する心」がほしい、と願うようになります。
「あなたがたのうちに働きかけて、その願いを起させ、かつ実現に至らせるのは神であって、それは神のよしとされるところだからである」(ピリピ2:13)。
「求めよ、そうすれば、与えられるであろう。捜せ、そうすれば、見いだすであろう。門をたたけ、そうすれば、あけてもらえるであろう」(マタイ7:7)。
第4に、求めなければ与えられません。ですから神様は、求める心までも与えて下さり、その求めに必ず答えてくださいます。
カン先生が、「14万4千人」という説教の中で語っておられることは、「私たちの品性、人格というものは、その方向性は1日、1日の積み重ねによって定まっていく」ということです。
「各時代の大争闘」にはこのように書かれています。
「たとえによると、婚宴の部屋に入ったのは、あかりとともに器に油を持っていた者たちであった。聖書から真理の知識を得るとともに、聖霊と神の恵みとを持っていた人々、厳しい試練の夜も、忍耐して待ち、より明らかな光を求めて聖書を研究した人々、―これらの人々は、天の聖所に関する真理と、救い主の務めの変化とを認め、信仰によって、天の聖所における彼の働きに従っていった。そして、聖書のあかしをとおして同じ真理を受けいれ、キリストが仲保の最後の働きを行うために、 そしてその最後にはみ国を受けるために、神の前に出られるのに信仰によって従っていく者たちは、すべて、婚宴の部屋に入るものとして表わされているのである」(422p)。
聖所の道は、イエス様が開いてくださった新しい生きた道です。
「兄弟たちよ。こういうわけで、わたしたちはイエスの血によって、はばかることなく聖所にはいることができ、 彼の肉体なる幕をとおり、わたしたちのために開いて下さった新しい生きた道をとおって、はいって行くことができるのであり・・・」(ヘブル10:19,20)。
私たちはその道を通らない限り、今、天の至聖所におられるイエス様に従っていくことはできません。
聖所の真理をよく理解し「罪を憎み義を愛する心」をいただく恵みにあずかることによってのみ、先ほどの引用に書いてある「天の聖所における彼の働きに従って」行くことができます。それ以外に道はありません。
心の中のことは、その人と神様しか分からないことです。至聖所におられるイエス様に従いたいと強く思っていても、もしこの恵みにあずかっていないと感じる方がいらしたら、そのことを謙虚に認め、その恵みにあずかることを、最優先に求めることが、なにより大事なことだと思います。
イエス様に従う歩みは、一瞬一瞬の選びにかかっています。この厳粛な歩みを、恐れかし込みつつ、主にあって前進させていただきたいと思います。