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ひまわりさんの日々の信仰日記と再臨信仰のエッセンスについてご紹介しています

救いの全行程を示す聖なる幕屋  第22回

2016年07月08日 | 日記

   大贖罪日の経験と審判

 神様は贖罪の日に、イスラエルの民が彼らのすべての罪から清められることを命じられました。彼らは一年を通して罪を告白し、罪祭と燔祭のいけにえをささげながら許しを受けてきました。しかし、年の終わりである大贖罪の日、神様は、各個人を彼らの悔い改めが本物であったか、今も同じ心を持って神様に仕えているか、本当に罪を悔い改めて捨ててしまったかについて、審判なさりました。(レビ16章参照)。したがって、イスラエルの民にとって、ユダヤ暦の最後にある贖罪日は審判の日と理解されていました。聖書は、神様がすべての人類を一人一人裁かれる日があると述べています。「このことを驚くには及ばない。墓の中にいる者たちがみな神の子の声を聞き、善をおこなった人々は、生命を受けるためによみがえり、悪をおこなった人々は、さばきを受けるためによみがえって、それぞれ出てくる時が来るであろう」(ヨハネ5:28,29)。

「神は、義をもってこの世界をさばくためその日を定め」(使徒行伝17:31)。「それだのに、あなたは、なぜ兄弟をさばくのか。あなたは、なぜ兄弟を軽んじるのか。わたしたちはみな、神のさばきの座の前に立つのである」(ローマ14:10)。「神のみまえと、生きている者と死んだ者とをさばくべきキリスト・イエスのみまえで、キリストの出現とその御国とを思い、おごそかに命じる」(Ⅱテモテ4:1)。「さばきが神の家から始められる時がきた。それが、わたしたちからまず始められるとしたら、神の福音に従わない人々の行く末は、どんなであろうか。また義人でさえ、かろうじて救われるのだとすれば、不信なる者や罪人は、どうなるであろうか」(ペテロ第一4:17)。

 聖所制度は私たちに、最終的には、すべての人間が誰もがみな一度神様の前に立つべきことを厳粛に教えています。もちろん、今、私たちはイエス·キリストの義を受けており、恵みを通して救いの衣を着ています。私たちがイエス様の手を離さない限り、主が私たちを決して離されないことも厳然たる事実です。しかし、ここに明らかな事実が一つあります!今すぐ、そう遠くない将来に、神は、今まで生まれたすべての人類を、めいめい、その動機と心を探られ、彼らの信仰の動機が真のものだったか、本当に神様を愛し、御言葉に従って生きてきたのか、そうでなかったのかを明らかにするために最後の審判を行なわれます。私たちは、聖書の教えを通して、その事実を明らかに知ることができます。

 大贖罪の日には、アザゼルの山羊にすべての罪を負わせて荒野に連れ出し、死なせる働きがありました。すでに多すべて許した罪をなぜそのようにしたのでしょうか?なぜなら、キリストの贖罪を受け入れることを拒否し、罪にしがみつくことを選んだ罪人は最後の日に滅びの審判を受けることになるという事実を象徴的に教えるためでした!神様は愛の神様です。しかし、神様は変えられなかった罪人を再び天に入らせて、再び天に戦いと反逆が起こる可能性を容認することはできないのです。私達は自分自身で、果たして主から頂いた心と動機で神様に正しく仕えているかを厳粛に探り、今吟味する時です。みなさんは果たして、今神様にお会いする準備ができているでしょうか?