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ひまわりさんの日々の信仰日記と再臨信仰のエッセンスについてご紹介しています

福音の道しるべ 64

2013年07月26日 | 日記

 

    64

A.金の燭台

聖所〔第一の部屋〕内の備品は、私たちを贖われる神のご計画を示すためにデザインされた。金の燭台は、天国に向かって旅をしている聖徒たちの前途を照らしてくれる。供えの机にあるパンは、旅人らを力づける。香の祭壇は、とりなしの祈りを表している。その祈りは、彼らに義の衣を着せ、必要な恵みと慰めを提供して、目的地にたどり着くまで手助けをしてくれる。

 まず初めに、金の燭台を考察しよう。金の燭台は、七枝に分かれていた。これは、完全な光であり、真理であられるキリストを表している。ゼカリヤ書3章8節と6章12節で、キリストが「枝」と呼ばれているのは、このためである。燭台が光を放つように、キリストはご自分の生涯と使命をとおして世を照らされた。燭台の燃料にはオリーブ油が用いられたが、それは聖霊を表している。「ゲッセマネ」とは「油が圧搾される場所」という意味である。私たちに聖霊を与えるため、キリストは私たちの代わりに罪を負われ、悩み多き道を歩まれた。

 「各時代の希望」中巻251ページに、「神が民にご自身をあらわされるときには、いつも光が神のご臨在の象徴であった」とある。光は神のご臨在を表すものであり、神はみことばを通して私たちの内に住まれる。ゆえに、光は神の言葉または真理をも表している。聖所には窓がなかった。つまり、外からの光が入らないようになっていたわけである。燭台が、唯一の光源であった。同様に、真の光であられるキリスト以外、外界からのいかなる光も魂に招き入れるべきではない。人間の哲学も理論も、私たちを救うことはできないのである。

 

  説教集:永遠の愛 ⑤ 死んでも死にきれない

新約聖書の使徒パウロという方は、「わたしは日々死んでいるのである」(コリント人への第1手紙1531節)と言っています。もちろん、パウロはキリストの忠実な僕ですから、私とは違うレベルの問題でそう言っているのですが、精神的な意味で、日々、自分のプライドとか自我、自己愛といわれるものに死んでいるなら、肉体の死は乗り越えられないものではないのです。

 なぜなら、人はときには、名誉を重んじ、辱められた悔しさに自殺することがあります。この場合、名誉というものが肉体の命以上に大切なものであったのです。逆に考えれば、人は、罪の告白によって命よりも大切な名誉・プライドを捨てることができれば、肉体の命にどこまでも執着するということはなくなるのです。例として適当でないかもしれませんが、一億円を寄付した人は、百円ならもっと喜んで差し出すことができるということです。

 このようにして、私は罪の告白を通して神の許しを実際的に体験し、また、肉体の死の苦しみを乗り越えて、神の永遠の世界へ迎え入れられるという確かな希望を持つことのできるものとされました。神の赦しを体験することによって、死への本質的な恐れは取り去られるのです。

 もしかりに、今日私たちが何かの事で死に直面したとしても、今まで私のために良いことだけをし続けてくださった方は、死後のことも、私のために、一番よいことをしてくださるという、絶対的な神様への信頼を持てること、これがイエス・キリストを信じる者の信仰であり、感謝です。

 



福音の道しるべ 63

2013年07月25日 | 日記

  

    63

聖所の中の備品

 信仰によってキリストの後について、聖所の中へ入ってみよう。聖所〔第一の部屋〕に入ると、三つの備品が目に留まる。金の燭台とパンの机〔テーブル〕、そして香の祭壇である。これらの物品は、神がどのように私たちを神聖な者とし、救いの経験を継続できるようにして下さるかを、象徴的に示している。外庭に置かれていた祭壇と洗盤は、真ちゅう製であった。聖所に置かれていた燭台とパンの机と香壇は、どれも金で作られていた。金製の物品も真ちゅう製の物品も、金づちで打たれ、形づくられた。金づちは、神の言葉を表している。「主は仰せられる。わたしの言葉は火のようではないか。また岩を打ち砕く鎚〔ハンマー〕のようではないか」(エレミヤ23:29)。金は信仰を象徴している。真理である神の言葉をとおして、信仰は圧せられ、鋳られる。愛によって働く〔行う〕信仰を表すために、聖所の備品は純金で作るようにと、神はお命じになった。それは、完全で混ぜ物のない信仰、日々の生活にあらわされるべき信仰である(Ⅰペテロ1:7;ガラテヤ5:6参照)。

 真ちゅうは、亜鉛と銅との合金である。聖書の中で、こういった混合金属は罪を表している。「わたしはまた、わが手をあなたに向け、あなたのかすを灰汁で溶かすように溶かし去り、あなたの混ざり物をすべて取り除く」(イザヤ1:25)。各物品の原料となった金属は、それぞれの部屋に入るときの罪人の状態を表していた。外庭に入ってくる罪人は、罪悪感を抱えていた。真ちゅう製の祭壇と洗盤は、自分が清められる必要があることを罪人に思い起こさせた。外庭での儀式の後、罪人は清められ(義なる者と認められ)、罪のないまま聖所に入ることができた。金の備品は、神が彼を清めてくださったことを保証した。罪は除かれたが、聖所の中にとどまるには、この状態を継続しなければならなかった。

  

   説教集:永遠の愛 ④ 

この溺れかかった経験の中で、私は自分が今、死に直面したら、安らかに死を迎えることはできないということがよくわかりました。それは、私がまだ若くてやりたいこともやっていないからというようなことだけではなくて、本質的な自分の罪を精算していないので、このままでは神様の前に出られない存在であるということがはっきりわかったからです。

 聖書には、「一度だけ死ぬことと、死んだ後、裁きを受けることとが、人間に定まっている」(へブル人への手紙927節)と書かれていますが、この神様の裁きの前に立つことができない自分を発見しました。それから私は、どうしたらこの問題を正しく解決できるかと、答えを探しました。聖書を今までよりもっと真剣に読み、熱心に祈り、また、信仰生活の秘訣について書いてある本などを読みました。そしてわかったことは、まず、自分の知っている罪を告白するということでした。

 「もし、わたしたちが自分の罪を告白するならば、神は真実で正しいかたであるから、その罪をゆるし、すべての不義からわたしたちをきよめて下さる」ヨハネ第1の手紙19節)

 「わたしは言った、『わたしのとがを主に告白しよう』と。その時あなたはわたしの犯した罪をゆるされた」(詩篇325節)

 しかし、自分の罪を告白するということは、これもまた、死ぬほどつらい、恥ずかしいことです。心の中で何度も戦いましたが、小さい時からの、知っている限りの悪業の数々を、少しずつではありましたが、おわびしたり、償いをしたりしていきました。そうするたびに、目の前が明るくなっていくような思いがしました。 そうやって、自分が人に迷惑をかけたこと、噓をついてごまかしたこと、盗んだことなどを、気がつく限りの罪の告白をしていくうちに、自分の誇りも名誉もこっぱみじんにされ、精神的な意味では死んだも同然と言うような自分であることがよくわかってきました。自分自身を誇れるものは何もなく、生きていても死んだと同じ、何もない自分、そこまできたら肉体の死もまた乗り越えられるにちがいないと思うようになってきました。

 新約聖書の使徒パウロという方は、「わたしは日々死んでいるのである」(コリント人への第1手紙1531節)と言っています。もちろん、パウロはキリストの忠実な僕ですから、私とは違うレベルの問題でそう言っているのですが、精神的な意味で、日々、自分のプライドとか自我、自己愛といわれるものに死んでいるなら、肉体の死は乗り越えられないものではないのです。



福音の道るべ 62

2013年07月24日 | 日記

  

   62

 聖化とは義認の継続的経験のことである。 

神は、義認が起こる前に、心の全的降服を要求なさる。そして、人が義認を保持するには、愛によって働き、魂を清める、活動的で生きた信仰を通じての、継続的な服従がなければならない。・・・人が信仰によって義と認められるには、信仰が、感情と衝動を制御する点まで達していなければならない。そして、信仰自体が完全なものとされるのは、服従によってである。     

 自分たちは信仰によってキリストを受け入れ、救われているのだとどんなに主張しても、もし心の奥底にひそむ罪との戦いに勝たなければ、救いの喜びと平安を得ることはできない。魂の内にある隠れた不安と罪悪感にさいなまれつつ、生きることになるであろう。このような状態で、自分は救われているとどうして言えるだろうか?

 結論として、聖化なしの救いはあり得ない。救いは義認にのみ基づいているのであって、聖化が良い実を結んだとしても、それは救いに不可欠な条件ではないとの教えは、非聖書的で聖所の教理に基づいていない。ゆえに、まぎれもなくサタンの欺瞞である。そのような教えは、偽りの安心感をもたらす。キリストは使徒パウロを通して、聖化は救いの経験の一部であると教えられた。「それは、彼らの目を開き、彼らをやみから光へ、悪魔の支配から神のみもとへ帰らせ、また、彼らが罪のゆるしを得、わたしを信じる信仰によって、聖別された人々に加わるためである」(使徒行伝2618)。「神があなたがたを初めから選んで、御霊によるきよめと、真理に対する信仰とによって、救いを得させ」た(Ⅱテサロニケ2:13

聖所の儀式は、神がどのように私たちを贖われるかを示す、精密な青写真〔詳細計画〕である。聖所の儀式の中で、義認を経験する罪人は、聖所〔第一の部屋〕に入っていき、神の恵みと規定によって、どのようにこの経験を維持するかを学ぶ。外庭は義認について教え、聖所は聖化について教えてくれる。この過程において、力の源であられる神は、キリストのみかたちへと私たちを日ごとに成長させてくださるのである。

  説教集 永遠の愛 ③ 死んでも死にきれない

さて、私たちが死の問題を考えるときに、どうしても見すごしてはならない問題があります。それは、直接、死の不安や恐れにつながっている問題です。死を恐れる心の背後には、肉体がどれほど苦しむのかわからないということ、天国や地獄はあるのかないのか、愛する者たちとの別離、という様々な不安や恐れがあります。こうした中でも非常に大きいのは、人間の罪意識の問題、過去の罪が正しく精算されているかどうかという点です。

 神学校の最終学年のとき、私は海で溺れそうになったことがあります。夏の終わりに、大学生、高校生あわせて4人で、茨城県の久慈川という所の海水浴場へ泳ぎに行きました。その日は海水浴客が多く、私たちは防波堤の外で泳ぎ出したのです。高い波を越えて、どんどん沖へ泳いで行き、だいぶたってから、岸へ引き返そうとして、向きを変えて泳ぎだしました。ところが、いくら泳いでも岸へ近づかないのです。今度こそと思って力いっぱい泳いでも、岸に着くことができません。私は、前に聞いたことのある、引き潮に引かれて、どんどん沖へ流されてしまうのではないかと思ってゾッとしました。幸いひとりの高校生が浮き輪を持っていましたので、それにみんなでつかまり、必死に岸をめざして泳ぎ続けました。けれども、どんなに頑張っても岸に近づきません。そのうちに、体は疲れてくる、波は高くなって頭の上からたたきつけてくる、そして、鼻といわず口と言わず塩水がドッと入ってきました。苦しくなって、もうここで死ぬのか、と思いました。その時、「まだ死にたくない。このままでは天国に行けない。まだいろんなことを精算していない」という気持ちが起きてきました。自分の今までのことを考えると、死んでも死にきれないと思ったのです。

 私は、その時、必死に神様に祈りました。生きるか死ぬかの瀬戸際ですから、死にもの狂いで、「神様、助けて下さい!」と叫んだのです。

 それからしばらくして、私たちは、それまでどんなに泳いでも岸の方へ行けなかったのに、見えない糸に引っぱられるようにして、どんどん岸の方へ近づき、やっとのことで砂浜にたどり着くことができました。

 後で聞いたところでは、そのあたりは、巻き波という、沖へ向かって流れる速い流れがあって、危険なので遊泳禁止になっていたのでした。そして、前の日にも、同じ時刻に一人の人が溺れて亡くなっていたと聞かされ、もう一度ゾッとしたのでした。

 この溺れかかった経験の中で、私は自分が今、死に直面したら、安らかに死を迎えることはできないということがよくわかりました。それは、私がまだ若くてやりたいこともやっていないからというようなことだけではなくて、本質的な自分の罪を精算していないので、このままでは神様の前に出られない存在であるということがはっきりわかったからです。



福音の道しるべ 61

2013年07月23日 | 日記

 

  61  (長南町の蓮田にて・・・ちょっと仏教をイメージしてしまいますが)

私たちは決して、自己に信頼して安全ではいられない。また、自分たちは誘惑を受けても大丈夫だと感じてはいけない。救い主を受け入れる者たちは、彼らの回心がどれほど誠実なものであっても、決して、自分たちは救われていると言ったり感じたりしてもよいと教えられるべきではない。これは惑わしである。すべての人は、希望と信仰を抱くように教えられるべきであるが、たとえ自らをキリストにささげ、彼が私たちを受け入れてくださっていることが分かっていても、私たちは、誘惑の届かないところにいるわけではない。・・・試練を耐え忍ぶ者だけが、命の冠を受けるであろう(ヤコブ1:12参照)。

 私たちは決して自己満足に安んじ、「私は救われている」と言って、前進するのをやめるべきではない。このような考えにひたると、目を覚まして祈り、より高い到達点を目指して真剣に努力するための動機が消え失せてしまう。キリストがおいでになり、神の都の門をくぐるまでは、清められた舌がこの言葉を語ることはない。そのときこそ私たちは、きわめて礼儀正しい態度で、永遠の救出を行われた神と小羊に栄光を帰することができるのである。


 

    説教集:永遠の愛 ② 死に打ち勝つ愛

ところがここに、この死の力に打ち勝ち、人を死から、永遠の世界へと引き戻して下さる方があります。人間を、誕生で始まり死で終わる人生から、死の彼方にある永遠の世界へと導いて下さる方、それが、イエス・キリストです。キリストはかつて、「わたしはよみがえりであり、命である。わたしを信じる者は、たとい死んでも生きる」と言われました(ヨハネによる福音書1125節)。キリストを信じる時に、私たちは、死を絶望の闇、出口のないトンネルとしてではなく、新しい生命への出発点、希望への入り口とすることが出来ます。

 聖書によれば、死は一時の「眠り」(コリント人への第1の手紙1551節)であって、やがて、「死人は朽ちない者によみがえらされ」る、と言われています。(同52節)。 このことを信じて、これまで数多くのクリスチャンが、死を雄々しく受け止め、死に敗北した者としてではなく、むしろ、死に勝利した者として、平安のうちに死を迎えていきました。

 以前、フジテレビのニュース・キャスターだった山川千秋さんという方が、がんのために亡くなられました。山川さんは東大の法学部を卒業し、フルブライトの留学生としてアメリカで勉強し、フジテレビのメインキャスターとして、エリートコースを歩んでこられた方です。しかし、この方が、がんにおかされてしまいました。ジャーナリストとして脂の乗り切った時期、突然の病です。クリスチャンだった奥さんは、真実を告げます。そして、信仰のことを学んでほしいと真剣に訴えました。もともと信仰に懐疑的だった山川さんは、初めは全く関心を示しませんでしたが、奥さんの熱心さに負け、牧師の話を聞くことにしました。

 牧師との初めての面会の日、山川さんは、牧師の語る、「人間は病で決して死なない。主が与えて下さる時が、その人の最善の時です。死は決して最後ではなく、死はキリストと一緒にいられる最高の幸せの始まりです」という言葉に深くうなずきました。がんを告知されても涙を見せなかった気丈な人が、時おり、涙を拭いながら牧師の話に耳を傾けたのです。やがて山川さんは、自分の命の長くないことを知って、ご家族にあてた遺書を書かれます。二人の息子さんがおられたのですが、長男の冬樹君にあてた遺書にこうありました。

     冬樹へ

 君の父は召された。君はわずか十四歳。早すぎる。つらい、悲しい、と思うかもしれない。

 しかし冬樹よ、ただ悲しんではいけない。

 すべては主のご計画によるのだから。しかも私は病気によって、主の啓示を受け、

 信仰をもつことができた。それは何よりも、どんなことよりも、貴重であり、 

 素晴らしいことだと思わないか。

 私は知っている。君は純粋な人間だ。正直だ。そして今は主を信じている。

 私は地上で君を深く愛し、そして君を信じた。これからは君を永遠に愛し、永遠に信じている。そして、     

 天国で君を待っている。

 どうか勇気をもって、これからの人生を主にたより、真実に生きてほしい。君はそれをすることも

 父は信じている。

 いつも、主イエスを中心にして、お母さんと史門の三人と、おばあちゃん、しっかりと心を結び合って

 ゆけば、地上の父がいなくても道は必ず開ける。

 私は君を息子として誇りに思う。

 君は主によって、よしとされるキリスト者になると父は信じている。

 また会うときまで、しっかりと、地上の生を生きてほしい。

        (山川千秋・穆子著「死は終わりではない」文芸春秋社)

 「死は終わりではない」。これがキリスト教を信じる者の確信です。死は虚無ではない。むしろ新しい、希望に満ちた世界の始まりである。キリストを信じるとき、私たちは、そう言うことができるのです。



福音の道しるべ 60

2013年07月22日 | 日記

 

  60

これをするためには、自分の意志を絶えず神に降服させねばならないが、これには執拗な努力が求められる。私たちは、自分の努力によって救われることはないが、自己に死に、己の意志を明け渡すという行いがなければ、だれも救いの経験を保持することはできない。救いの経験は外庭で終わるのではなく、聖所を通り、至聖所へと至るものでなければならない。救いは十字架で完成されなかったが、贖いの恵みは十字架で提供された。つまり、救いのお膳立ては十字架でなされたのである。聖書には、「御子を信じる者がひとりも滅びないで、永遠の命を得るため」と書かれている(ヨハネ3:16)。救いは神からの無償の賜物であるが、この賜物を受けるには、信仰が伴わなくてはならない。神を信じるとは彼を愛することであり、神を愛する者たちは彼の戒めを守るであろう(ヨハネ14:15,21参照)。聖所の儀式は、神がどのように民を裁かれるかを説明しているものに過ぎない、と言う人たちがいる。しかしながら、神が罪を断ち切り、ご自分の民を印されるときにも、地上に住んでいる者たちの協力と献身がなければ何もおできにならないことを、私たちは理解しなくてはならない。

   説教集:永遠の愛 ①

   いつまでも生きていたい 

 こんな話を聞いたことがあります。ある所に、一人のお婆ちゃんがおられました。この方は頭はしっかりしているのですけれども、体が動かなくなって、ほとんど寝たきり状態でした。家族の者に厄介をかけているという思いからでしょうか、口癖のように「早く死にたい。早く死にたい」と言っていました。

この家に、茶目っ気のある高校生のお孫さんがいました。ある時おばあちゃんがいつものように「死にたい、死んでしまいたい」と言うものですから、「お婆ちゃん、そんなに死にたいの」と聞きました。お婆ちゃんは「ああ、もう生きていなくていい。早くお迎えが来てほしい」と答えたのです。するとお孫さんは、「お婆ちゃん、お婆ちゃんがそんなに死にたいのなら、この薬を飲んだら楽に死ねるそうよ。お婆ちゃんのために、私、学校からこっそり持ってきたんだけど、飲む?」、そういって小さな包みを取り出しました。言われたお婆ちゃん、「今日は疲れたから、また明日にする」と顔をそむけてしまったそうです。

このお婆ちゃんは、「死にたい、死にたい」と口では言っていても、本当は死にたくない、どんなに苦しくても、やっぱり生きていたいと思っていたのです。そして、人間だれしも、同じようにいつまでも生きていたいと願っているのではないでしょうか。

しかし、どんなに私たちが生きていたいと願っても、死は必ずやってきます。私たちすべての者は、あの四角い六枚の板の中に入って終わりなのです。昔の人は、「世界の勝利者はウジ虫だ」と言いました。人間は誰しも、どんなに知恵があっても、体力があっても、金持ちでも権力者でも、みんな死んで、最後はウジ虫に食われてしまう、だから、ウジ虫が世界の最終勝利者なのだというわけです。

私が、生まれて初めて火葬場に行った時のことを思いだします。21歳の時、牧師の実習で、九州の教会に行った時のことでした。教会員の方が亡くなられ、お葬式が行われました。その式の後、私は遺族の方々と一緒に、火葬場に行きました。

お棺が焼却炉の中へ納められて数時間後、係の人の連絡で、遺族の者が焼却炉の前に並びました。扉が開けられ、トロッコが引き出されてくると、ムーッとする熱気、魚の焦げたような臭いが立ち込めます。トロッコの上を見ると、そこにはカサカサに乾いたカンナクズのようなものがパラパラと散らばっているだけでした。それを見た時は、ほんとうにショックでした。ほんの終日前までは、生きて、泣いたり、笑ったりしていた人が、今はもう、何の意味も持たない小さなカケラに変わり果てているのですから。人間はみなこうなってしまうのか。そう思うと、何とも言えないむなしさがこみあげてきました。自分の愛する者も、そして自分自身さえも、いつかはこうなってしまうのだとすれば、生きることにどんな意味があるのだろう、つくづくそう思いました。

死というのは、いっさいを無にする、巨大なブラックホールのようなものです。そこへ行けば、すべてが何の意味も持たなくなる世界です。しかも、死の前では、どんな人も全く無力です。どんなに死に逆らおうとしえも、人はたちどころに、死に打ち負かされてしまいます。