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ひまわりさんの日々の信仰日記と再臨信仰のエッセンスについてご紹介しています

福音の道しるべ 44

2013年07月06日 | 日記

   

  44

天父が、これまでいとしい御子に与えてこられた是認と支持の確証をとり去られたので、息も絶え絶えの苦悶のうちに、キリストの信仰と希望は動揺した。その時、世の贖い主は、天父が彼の労苦をお受け入れになり、彼の働きを喜ばれたとの、これまで彼を力づけてきた証拠に頼られた。死の苦しみにあって、その尊い命を明け渡されるときに、彼は、従うことが常に彼の喜びであったお方に、ただ信仰によって頼られたのである。左右のどこにも、彼を元気づける、希望という、澄んだ明るい光は見られない。すべてが重苦しい暗やみに包まれている。情け深い贖い主は、恐るべき暗黒のただ中で、謎に包まれた杯を最後まで飲み干される。将来、彼のものとなるべき勝利の明るい希望と確信さえも与えられないまま、「父よ、私の霊をみ手にゆだねます」と大声で叫ばれる。

 

ある者たちは、贖罪について乏しい見解しか持っていない。キリストは神の律法の刑罰の一部だけを受けられたにすぎないと、彼らは考える。神のいとし子は、苦痛を受けて神の怒りを感じておられる間も、天父の愛と支持の証拠が与えられ、目前の墓の入口は明るい希望で照らされ、将来の栄光という永続的証拠があったのだと、彼らは推測する。ここに大きな誤りがある。キリストの最も激しい苦悩は、彼の父の不興を実感したことであった。このために、彼の精神的苦痛は極めて激しいものとなり、人はそれについて、おぼろげな概念しか抱くことができない。

 

 

  説教集:愛とゆるし 2 涙の決心

こんなことがありました。私がまだ神学校で学んでいたころのことです。当時学校では、春と秋に宗教週間と言って、外部から講師をお呼びし、一週間、聖書についての特別な講演会を行っていました。

ある年の講演会は素晴らしい内容で、まだキリスト教を知って日も浅かった私の心を、さらに強く聖書へと結びつけてくれました。その講演会の最終日、講師の先生は学生たちに訴えました。「皆さんの中で、キリストを信じ、どんな時にもキリストと共に歩んでいきたいと決心する人は、この場に立ち上がって下さい」と。私はもちろん、座っていた学生全員が、いっせいに立ちあがりました。中には涙を流しながら立っている人もいます。神を信じることの素晴らしさに感動し、その神を信頼して生きていこうと、熱い献身の思いに満たされたのです。

やがて会は終わり、前の方から順に退場することになりました。静かな、オルガンの流れる中、私は感動に心をふるわせながらチャペルのドアのところまできました。その時です。私の前を歩いていた一人の学生が、ドアを押して外に出るなり、そのドアを後ろへ強く引き戻したのです。そのドアが、うつむきかげんで歩いていた私の額に「バン!」と当たりました。その瞬間、私の心には、激しい怒りが起きてきました「失礼なやつだ、人にドアをぶつけておいてあやまりもしないなんて」。そんな苦々しい思いが心に渦巻き、私は腹立たしさでいっぱいになりました。それと同時に、先ほどの、ほんの数分前までの、あの涙を流さんばかりの清い献身の思いは、どこかへ消えていってしまったのです。私は腹立たしさと、こんなことに腹を立てている自分がみじめになり、何もかも信じられない思いにさせられました。


福音の道しるべ 43

2013年07月05日 | 日記

   

 43

十字架上であれほど速やかにキリストを絶命させたのは、肉体的苦痛ではなかった。それは、世の罪の重さに圧倒され、天父の怒りを痛感したためであった。天父の栄光とご臨在が彼から離れ去り、暗黒の圧倒的重みに押しつぶされて絶望し、その青ざめた、震える唇から悲痛な叫びが絞り出された。「わが神、わが神、どうしてわたしをお見捨てになったのですか」・・・

 死に瀕しておられる神の御子は、疑いの念にも激しく襲われた。彼は、墓の入口から先を、見通すことができなかった。ご自分が征服者として墓から出てこられることや、彼の犠牲が天父に受け入れられるといった、明るい希望は与えられなかった。世の罪が、そのおぞましさと共に、神の御子により極限まで感じられた。この驚くべき暗黒の中で、彼が実感できたのは、罪に対する天父の不興とその刑罰、すなわち死だけであった。罪は神の御目にあまりにも忌まわしいものであるから、御子と和解することはおできにならないであろうとの恐怖心に、彼はさいなまれた。実の父が自分を永久に見捨てたとのすさまじい誘惑が、十字架からのあの悲痛な叫びをあげさせた。・・・

 神の怒りの鉢が注がれるときの、罪人らの心境を、キリストは実感なさった。死の棺に入れられたような暗黒の絶望が罪人らの魂に群がり、そのとき彼らは、罪の深さをその極みまで悟るであろう。

 

 

   説教集 : 愛と赦し 1

 愛の誓い

 純白のウェディングドレスに身を包み、厳かに神の前で愛を誓う、そのようなキリスト教式の結婚式にあこがれを感じる若い女性は多いようです。最近、キリスト教信者ではなくても、教会で結婚式を挙げる人がふえてきています。

ところで、この教会の結婚式で、私が一番感動する場面があります。それは牧師の前に立つ二人が、結婚の誓約をするところです。牧師がまず男性に向かって尋ねます。「あなたは、あなたのかたわらにいる女性を妻として、順境の時も逆境の時も、健やかな時も病むときも、これを愛しいたわり、その命のある限り、固く節操を守ることを誓いますか」。もちろん男性は「ハイ」と答え、女性もまた同じように答えます。

生まれも、育った環境も、物の見方、感じ方も違う二人が、この誓いによって生涯を共にするというのですから、これは大変な決心です。人生の大きな選択が、この誓いによってなされるのです。

しかし現実には、この誓いはしばしば破られています。日本では結婚した五組に一組は離婚する時代になってきましたし、外面的にはともかくも、内面的には、この誓いが何の意味も持たなくなっている夫婦もたくさんあるといいます。

神の前で、人々の前で誓っても別れていくカップル。そこには、いくら決心しても、その決心に忠実でありえない、人間のどうしようもない現実、弱さというべきものがあります。

まさか、「この人とはいつか別れることになるかも知れない」などと思いながら誓う人はいないでしょうから、その時は真実だったのです。しかし、現実には、多くの人が離婚しているのですから、人間の誓いや決心ほど、あてにならないものはない、といえるかもしれません。


福音の道しるべ 42

2013年07月04日 | 日記

 

   42 

天国へ行って、キリストが人性を取られたことが、どれほど大きな犠牲であったかをこの目で見るまで、私たちが主の犠牲を完全に理解することはできないだろう。罪祭を定められた神の御目的は、罪人が罪の赦しの価の大きさを自覚できるようにするためであった。それは罪人に、罪を憎んで義を切望することを教えた。

 コリント人への第二の手紙5章の21節に、「神はわたしたちの罪のために、罪を知らないかたを罪とされた。それは、わたしたちが、彼にあって神の義となるためなのである」と書かれている。また、ペテロ第一の手紙2章の24節には、「さらに、わたしたちが罪に死に、義に生きるために、十字架にかかって、わたしたちの罪をご自分の身に負われた」とある。何と鮮やかな描写であることか! キリストご自身が、ご自分のお体に私たちの罪を負われ、罪の責任を取ってくださったのである。彼はどのようにして、ご自分のお体に罪を負われたのであろう? 霊感の言葉は、イエスが十字架上で、どのように私たちの罪を負われたかを描いている。キリストは真の意味において、私たちのために罪となられ、私たちの身代わりとして、憐みの混じらない神の断罪を経験なさったのである。

 

ゲッセマネにおける神のいとしい御子の、筆舌に尽くしがたい苦悩、すなわち人の罪を負った結果、天父から絶縁されたことを悟られたときの苦悩について、我々はほんのかすかな概念しか持っていない。彼は、堕落した人類のために罪となられた。天父の愛から断ち切られたことを痛感して、次のような悲痛な言葉が魂から絞り出された。「わたしは、悲しみのあまり死ぬほどである」「もしできることでしたらどうか、この杯をわたしから過ぎ去らせてください」(マタイ26:38,39)

キリストの心に、天の誉れと権勢を捨てさせ、救おうとしていた者たちから軽蔑されて拒絶され、ついには十字架上で苦しむこともいとわず、罪深い世界へと来させたものは、永遠の、人を贖う愛以外の何のでもなかった。そしてそのことは、いつまでも神秘〔奥義〕であり続けるであろう。

 

  説教集:すべてを与える愛 5 信じるとは

 最後に、では私たちは、このような神様の愛にどう関わっていくのでしょうか。それは「御子を信じる」ということによってです。神様の愛は、もちろんすべての人に注がれています。しかし、その愛を受け取るのは、キリストを自分の救い主、また主と信じることによってだけなのです。キリストから離れたところには、本当の命はありません。

 私たちには、病気が治ったとか、お金が手に入ったとかいう不思議な体験や奇跡的出来事によって、永遠の命の確かさを信じようとする根強い傾向があります。

しかし、キリストを信じることが、神様の愛と命を得ていることの確実な保証なのです(ヨハネによる福音書3章36節参照)。

 しかも、ここで信じるというのは、無理やり思い込んだり、大声で「私は信じる!」と叫ぶようなものではありません。それはちょうど疑い深いトマスが、復活されたキリストにお会いしたときに言った言葉のようです。トマスはキリストの復活が信じられず、本当にキリストかどうか、手の釘跡を見なければ信じないなどと言い放っていました。そのとき、キリストが彼の前に現れてくださったのです。そして、トマスに言われました。「あなたの指をここにつけて、わたしの手を見なさい。手をのばして私のわきにさし入れてみなさい。信じない者にならないで、信じる者になりなさい」(同20章27節)

 トマスは、自分の不信仰さを嘆きながらも、自分に示された神の恵みに驚き、「わが主よ、わが神よ」と言いました(同20章28節)。そして私たちも、私たちのために現された、神様の愛の圧倒的な力強さの前に、驚き、ひれ伏し、信じざるを得なくされ、「この人による以外に救いはない」(使徒行伝4章12節)と告白させられていくのです。

 「神はそのひとり子を賜ったほどに、この世を愛して下さった。それは御子を信じる者がひとりも滅びないで、永遠の命を得るためである」。

私たち一人一人に、この神よりの喜ばしい約束の言葉が語られています。

    《 これをお読みになるあなたが、この永遠の命の約束を自分のものとされますように 》   (この項最終回)

 


福音の道しるべ  41

2013年07月03日 | 日記

   

    41

もしかしたら罪人は、子羊の血が聖所に持っていかれないのを見て、疑いを抱いたかもしれない。あるいは、祭司がどのように執り成しの祈りをしてくれたのかを見ることができないために、自分の罪は本当に赦されるのかと恐れを抱いたかもしれない。しかし、たとえ血が聖所に持ち込まれなかったとしても、祭司は別の方法でその人のために執り成すことができたのである。祭司は、罪祭の肉のひときれを取って食べた。この行為により、供え物に告白された罪は、祭司自身のものとなった。それから、祭司は自分自身の罪のために祈るために聖所へ入ったとき、彼は一般の罪人のためにも祈ったのである。

まさしくこれは、メシヤご自身を指し示している。ご自身は罪なきお方であられたが、罪人の罪を負われ、犠牲の子羊のように、罪人のために死のうとしておられたのであった。この儀式は、キリストの死を象徴していた(レビ記6:25-30)。

 この儀式は、罪人にどれほど深い感銘を与えたことか! 自らの手で殺した子羊が、自分の罪を赦すために残酷な死を受けられる罪なき神の小羊を表すとは! 罪の恐るべき結果を身をもって知った人は、大祭司が自分の身代わりとなったことを悟って、身震いしたことだろう。罪人が罪祭の重要性を本当の意味で悟ったのは、この時点においてであった。罪祭の儀式を神が定められた理由が、ここに見られる。自分の罪が赦されるために、どのような働きがなされるのかを、罪人は体験することになっていた。神が罪を見過ごしになさったり、お忘れになったりするようなことは、決してない。罪の赦しには、無限の価が求められた。

 

   説教集:すべてを与える愛 4 きわみまでの愛

 そして、「ひとりも滅びないで」とあるように、神様の愛は、その目的を達成するところまでは、やむことがないのです。神様の支えは、信じる者が永遠の命を得て、命によみがえるところまでは、離れることがありません。神様の愛は、真実で徹底的なものであり、私たちが日ごろ口にするものとは全く異なっています。 私たちは、自分の都合が中心であり、相手が変わればこちらも変わってしまうような愛しかあらわせません。けれども、神様はわたしたちの状態によって、愛することを控えたりはされません。私たちが、手がかかりすぎるからといって途中で捨てたりはされません。神様は最後まで、信じる者が永遠の命を見いだし、それを受けるまでずっと面倒を見て下さるのです。


福音の道しるべ 40

2013年07月02日 | 日記

    

   40

 罪祭の儀式において、油注がれた祭司または全会衆が罪を犯したときには、いけにえの血は聖所に携え入れられ、聖所と至聖所を隔てている幕の前でふりかけられ、祭司がとりなしの祈りをささげる香の祭壇の角に塗られた。支配者または一般人が罪を犯した場合には、血は聖所に携え入れられるのではなく、幕屋の入口にある燔祭の祭壇の角に塗られ、残りは祭壇の基部に注がれた。

 支配者や一般人のための罪祭の血が、聖所に持ち込まれなかったとするならば、罪はそこに移されなかったということになる。罪が聖所に移されなければ、祭司は罪人のために祈りをささげることができなかった。祭司の場合、子羊の頭に手を置いて罪を告白したとき、彼の罪は子羊に移された。子羊を殺した後で、別の祭司が血を取って、それを聖所にもっていき、その血を通して、告白された罪が聖所に移された。一般人が罪を犯して罪祭がささげられたとき、血は聖所に運ばれるのではなく、燔祭の祭壇の周りにふりかけられ、残りは祭壇の基部に注がれた。

 

   説教集: すべてを与える愛 3 よみがえりの待望

 さらに神様の愛は、「御子を信じる者がひとりも滅びないで、永遠の命を得るため」のものであるということが記されています。信じる者が永遠の命を得ること、これが神様の愛の最終目標なのです。ある神学者はこう言いました。「キリストの教会もまた、このゴールを目指して走りつづけてきました。神が御子を賜った、ということを彼ら(弟子達)が感謝する時に、そこで第一に思い浮かべていることは、この永遠の命が確かなものであるということ、彼らがそれを受け取ることが許されているということなのです」。「よみがえりの待望、永遠の命を受けることは信仰の精髄であり、生命力であり中核」であるとも言います。無学で無力な弟子達を、死をも恐れない信仰者に変えたのは、この復活の確かさということでした。

 また、この永遠の命とは、私たちが死後の命を期待しているということだけでなく、今ここにおける神様との交わり、その喜びの世界、すでに来ている神の国へ入れられるということも意味しています。聖書には、「永遠の命とは、唯一の、まことの神でいますあなたと、また、あなたが遣わされたイエス・キリストを知ることであります」(ヨハネによる福音書17章3節)とあります。

 神様を知ること、今までと違った仕方で神様を知り、神様と交わっていくこと、それが永遠の命を得ることだというのです。それはどのようなものなのでしょうか。ある方が、こういう意味のことを言っています。「人には誰でも他の人にかくしておきたい恥ずかしい欲望や、罪の思いがある。そして人はまさにそのところで神に会うのだ」。

 私たちの本当の悩みや苦しみは、とうてい他の人に打ちあけることのできないものです。そして私たちは、そういう所で人知れず悩んでいるのです。けれども、私たちが神を知るのは、そのような心の奥深くにあって、一番私たちを苦しめている、そのゆえに、死や滅びを意識している問題を通してなのです。私たちが、自分の魂の秘められた部分を神様の前にさらけ出し、それでもなおそこに滅びではなく神様の愛を見る時、私たちは心から感謝することができます。愚かしくて恥ずかしい私たちが、神様の愛にすっぽりと包まれて生きることができるのです。そのことを知る時に、私たちの、かたくなで人を愛することのできない心が広げられていくのです。永遠の神様に属するものである愛を、私たちも行いうるものとされていきます。神様を知る時に、私たちは命を、その本質である愛を知るのです。