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ひまわりさんの日々の信仰日記と再臨信仰のエッセンスについてご紹介しています

復員の道しるべ  49

2013年07月11日 | 日記

    

   49

D.罪祭と新しい契約の経験

 古い契約と新しい契約の違いは、各々の契約に対する人の心の状態にある。条件と内容は、どちらも変わらない。どちらの契約も、神と人との間の合意による取り決めである。もし神の民が神の戒めを遵守するなら、神は彼らをご自分の民とし、彼らの神となることを約束しておられる。神はイスラエルとこの約束を交わされたが、イスラエルはその合意事項に沿って生きなかった。契約の条件に沿って生きる民こそが、真のイスラエルである。使徒パウロは、契約の条項を満たした人たちを、「神のイスラエル」と呼んだ。

 

しかし、わたし自身には、わたしの主イエス・キリストの十字架以外に、誇りとするものは、断じてあってはならない。この十字架につけられて、この世はわたしに対して死に、わたしもこの世に対して死んでしまったのである。割礼のあるなしは問題ではなく、ただ、新しく造られることこそ、重要なのである。この法則に従って進む人々の上に、平和とあわれみとがあるように。また、神のイスラエルの上にあるように(ガラテヤ人への手紙6:1416)。


 

  説教集: 受ける愛、与える愛  1

 

愛は人を生かす

人間が生きていくためにどうしても必要なものが二つあります。一つは「愛されること」であり、もう一つは「愛すること」です。自分がだれからも愛されていないと思ったら、その人は生きていくことができないでしょうし、誰をも愛していないとしたら、生きている意味がないのです。

第二次世界大戦後のドイツで、あるイギリスの小児科医が発表した有名な研究があります。戦争で親をなくした子供たちのために建てられた二つの孤児院がありました。一つの孤児院の保母さんは、いつもニコニコして優しく、大の子ども好きでした。この人のいる孤児院の子供たちは発育がよく、体重がぐんぐんふえていきました。ところが、もう一つの孤児院には、たいへん厳しい保母さんがいて、口やかましく育てていました。この孤児院の子どもたちは成長が遅く、体重が増えなかったのです。

そのうちにこの二人の保母さんが、転勤で入れ替わりになりました。そうすると、今度は、子どもの発育が全く逆転してしまったというのです。(昇幹著「笑いと健康」美健ガイド社より)

あたたかい愛、やさしい雰囲気が、子どもの成長にどれほど大切であるかがよくわかります。そしてこれは大人でも同じだと思います。

ところで私たちは誰でも、愛されることを求めています。自分を理解してほしい、受け入れてほしいと願っています。しばらく前に「愛されたい症候群」という言葉が流行したほど、私たちは愛されることを求めているのです。しかし、この愛されるということについて忘れてはならない二つのことがあります。その一つは、他人からの愛は変わりやすいものであり、しばしば裏切られたり、だまされたり、ということが起きるということです。これまで一度もそういう目にあったことがないという人は、おそらくないでしょう。愛し合っていると思っていた恋人の心変わりを嘆く声は、古今東西数知れません。

この世で最も美しい無償の愛といわれる母親の愛でさえ、最近では(昔もそうだったのかもしれませんが)あてにならないようになってきました。産んだ子をコインロッカーに捨てたとか、泣き声がうるさいからせっかんして殺した、などというニュースはよく耳にします。しかも、失恋の苦しさに自殺する人さえいるのですから、愛を失う痛手は大きいのです。そこまでいかなくても、信頼していた人に裏切られて深く傷つき、人間不信に陥るということはしばしばあります。人間同士の愛は非常にもろく、頼りにならないためにこうしたことが起こるのです。



福音の道しるべ 48

2013年07月10日 | 日記

 

  48

罪祭の儀式を見れば、義認と聖化が起こるときに罪が止むことが分かる。すべての罪が告白され捨て去られるときに義認が起こり、人は義なる者とされる。聖化は、この時点で始まる。これは、聖所の外庭の経験である。この後に、罪祭と燔祭をささげた人は、祭司と共に(信仰によって)聖所の中に入るわけだが、それは聖化の経験が継続されることを象徴している。聖所の中では、罪のために犠牲がささげられることはない。従って、もしこの聖化の段階において過ちや罪を犯したら、その人は、もう一度外庭に戻って、別の子羊を犠牲にささげ、再び全過程を踏まなければならなかった。つまり、再び罪を犯したときは、再回心を経験しなければならないということである。事実、私たちは、日ごとに回心しなければならない。

多くの人は、聖所の制度を通して福音を理解していないために、欺瞞的な安価な福音の教えに陥っている。特に、最近の神学では、人々に偽りの救いの確証を与え、偽りの霊的経験を提供している。ただし、間違った福音だけを教える人はほとんどいない。真理と誤謬が混ぜ合わされているので、よけいに人々を致命的な安心感へ導くのである。あなたが真の神の民となりたいのであれば、聖所に明示された贖いの計画と、人間の願望が作りあげた信仰による義とを、識別できる知恵がなくてはならない。次項では、どうすれば新しい契約の経験が持てるかについて学ぶことにする。

 

説教集 愛とゆるし  今ここで

しばらく前のことですが、山谷に住む一人の人に、聖書のことを話してほしいという依頼がありました。その方は、若い時仕事に失敗し、妻子を捨てて各地を放浪したあげく、山谷の労働者になったのでした。俳句が好きで、それだけを唯一の生きがいとして生きて来て、いま六十歳を超えて、がんのために病床に伏す身となり、死への恐怖におびえつつ毎日を過ごしておられるのでした。そのような自分の人生を、この方はこう書いています。「人間だれしも長い人生ではいく度か曲がり角につきあたります。それは自分自身がつくるものもあれば、心ならずも他人や自然現象などによってつくられたものもありますが、そういうものによって人間の精神状態が変えられるのです。心の弱い者はたちまちそれに負け、落ちこぼれてしまいます。私の場合、その典型です。このような老齢になって大手術をしなければ命の保障ができないと言う最悪の事態になりました。今、自分をかえりみて、何というおろかな人生だったのだろうと、我ながらあきれてしまいます」と。

しかしこの方が、聖書を学んでいくうちに変えられていったのです。その心境をこう俳句に詠んでいます。

  蝉老いて 神への道を まさぐれり

   神へ行く 証の母印 流れ星

「私は……、今までうつ伏していた自分が上向きにされたような感じがして、胸が広くなり、死ということを考えなくなり、もし命が終わりなら神にお祈りして天に戻してもらえると、心に安らぎを覚えるようになりました。それまで看護師さんに何かと言っていたのが、感謝の気持ちに変わり、その後は一言も言わなかった。私は父や姉弟を看取ったが、貧乏のためろくに医者にもかからず天国に召されたことを思えば、今の私はなんと幸せなことか。入院させてもらい、立派な医師に診られ、手厚い看護婦の看護を受け療養のできる幸せを心から感謝し飯田さんのお陰で心のあたたかさが広がってゆくことに喜びを感じるようになりました」(手記より)。

この方が亡くなる一週間前、病床で洗礼式(バプテスマ)をすることになりました。その日は朝から容態が悪く、ずっとベッドに横になっておられました。ところが、誓約の終わりの「父と子と聖霊の名によってあなたにバプテスマを授けます!」という言葉で突然起きあがり、最後の力をふりしぼるようにお辞儀をして、「ありがとうございます!」とはっきりした声で言われたのです。

この方は人生の最後になって、自分が神のもとへ行けることを本当に喜ぶようになられました。この方は、自分でも言うように、失敗だらけの、みじめな敗残者の人生を送ってこられました。しかし、その最後に、自分の人生のすべてを赦し、受け入れて下さる方と出会うことによって、いわば、マイナスの人生が一挙にプラスに変えられたのでした。この方の絶筆となった句は明るい信頼に満ちています。

  今ここで 天に戻さる 梅雨しめり

人間には現実と真実という二つの面があります。ペテロにとっての現実は、キリストを拒み、裏切るというみじめなものでした。しかし、このような現実にもかかわらず、キリストはペテロの決心、「あなたを知らないなどとは申しません」という言葉を、真実のものとして受け入れて下さったのです。どんなに表面的には救いがたく、おろかな失敗を犯してしまう人間であっても、その心の奥にある真実の声、魂の叫びを聞きとり、神の真実にかけて、その人を愛し、受け入れて下さる方、それが聖書のイエス・キリストです。

このキリストの愛を知る時、私たちの人生は自由なものとなり、喜びに満ちたものとなります。そして、何度も許される中で、同じ失敗、あやまちをくり返すことがないように、全く新しい心へと造り変えてくださるのです。

  《 あなたが新しいキリストの愛に出会われますように 》

 

 

 

 




福音の道しるべ 47

2013年07月09日 | 日記

    

 47

 神がモーセに石の板(十戒)をお与えになったとき、稲光と雷鳴と地震と暗黒がシナイ山を包んだ。キリストが死なれたとき、稲光と雷鳴と地震と暗黒が彼を取り囲んだ。神は、シナイ山で古い契約を制定なさったように、十字架で新しい契約を制定なさった。先の契約下で条件を果たし、神の戒めに従うことができなかった人たちのために、聖霊を通して心と思いのうちにご自分の律法を刻み込めるようにと、神は究極の愛をあらわされたのであった。「わたしが、それらの日の後、彼らに対して立てようとする契約はこれであると、主が言われる。わたしの律法を彼らの心に与え、彼らの思いのうちに書きつけよう・・・」(ヘブル1016)。この経験の後に、私たちは、ダビデが記したような生き方を始めるのである。「それゆえ、わたしは金よりも、純金よりもまさってあなたの戒めを愛します」(詩篇119127)。


  説教集:愛とゆるし    どん底からの出発

この、キリストを拒んでみじめに泣いたペテロが、やがて、立ち直り、大使徒になったと聖書は伝えています。そして伝説によれば、後年ペテロは迫害にあって捕らえられ、死刑にされる時、キリストと同じ十字架ではもったいないと言って、逆さ十字架につけられて殉教していったそうです。人生の決定的瞬間にキリストを裏切り、周囲をあざむこうとしたペテロが、どうして再びキリストの弟子として立ち直ることが出来たのでしょうか。ペテロのこの変わりようは不思議な気がします。日本人の考え方でいうなら、自分を恥じ、身を引いて余生を送るということにでもなりそうですが、ペテロはそうしませんでした。むしろ、自分の失敗をさらけ出し、自分のようなものでもなお、愛し、救って下さる方として、キリストを人々に宣べ伝えていったのです。

このペテロを立ち直らせたもの、その秘訣が聖書に書いてあります。先ほどのキリストとの別れの場面を、ルカという人が書いたものです。

 

シモン、シモン(ペテロの別名)、見よ、サタンはあなたがたを麦のようにふるいにかけることを願って許された。しかし、わたしはあなたの信仰がなくならないように、あなたのために祈った。それで、あなたが立ち直った時には、兄弟たちを力づけてやりなさい。(ルカによる福音書22章31節、32節)

 

イエス・キリストは、弟子たちと三年半の間一緒にすごして、一人ひとりの個性、性格をよくご存知でした。ペテロが、自分で思っているほど強い人間ではなく、環境や感情に左右されやすい、もろい性格であることもよくわかっておられました。だからこそキリストは「三度わたしを知らない、と言うだろう」と言われたのです。そしてペテロが、「そんなことはありません。決してそんなことはしません」と言っている時にも、「どうしてお前はそんなに思いあがるのだ。もっと自分をわきまえなさい」というような冷ややかな態度でペテロを見つめておられたのではありませんでした。そうではなく、「わかっているよペテロ、お前の気持ちは私が一番よく知っている。お前はわたしを知らないと言うだろう。しかしわたしは、今のお前のその気持ちで十分だ。お前のその真実の心のゆえに、わたしはお前を何度でも赦してあげよう。お前を赦すためにも、わたしは十字架につくのだから……」。

キリストは心の中で、そう言っておられたに違いありません。そして、この変わりやすいペテロのために、彼が絶望したり、卑屈になったりしないように、キリストは心をこめて祈られたのです。人々の前で激しく誓って、「あんな人は知らない」と言ってキリストを拒んだペテロ、そのような者さえも、なおも愛し、赦し、受け入れて下さるキリスト。このキリストの愛の心こそ、ペテロを立ち直らせたものでした。

人間の弱さ,つまずきやすい、倒れやすい性質を知ってなお、人間を、愛して下さる方、それがキリストです。

よく、キリスト教は愛の宗教だと言われますが、愛のもっともすばらしい一面は、「赦し」ということです。愛が極まる時、そこにはいっさいを不問にする赦しの精神があります。そして、このような愛を、キリストは、キリストを信じる者に示して下さるのです。

考えてみますと、これまでの人生を一度も失敗せず、つまずきもせず、人を裏切ることもなく生きた人がいるでしょうか。誰でもその歩みにおいて、苦い涙を流し、自分の足りなさ、愚かさを嘆いたことがあるはずです。決心しても決心しても、その決心が崩れてしまう……。たとえば、酒やタバコやギャンブルをやめようとしてもやめられないとか、「わかっているけれどやめられない」といったことはよく経験します。「ああ、またやってしまった」。これは、私たちの最大の嘆きの一つでしょう。このような私たちを、それにもかかわらず愛し、赦し受け入れて下さる方、その弱さに勝利する力を与えて下さる方、それがイエス・キリストです。

 


福音の道しるべ 46

2013年07月08日 | 日記

  

  46

二千年前にキリストが死なれたとき、自分はその場にいなかったので、自分は彼の十字架の死に関与していないと、ある人たちは考える。それは真実だろうか? キリストは、十字架刑からくる肉体的苦痛によって死なれたのではなかった。身代わりとして負われた私たちの罪の重みが、彼の心臓を破裂させたのであった。キリストは、私たちの罪のために死なれた。私たちの罪が彼を刺し通し、彼を死に至らせた。通常の十字架刑で見られたように、ゆっくりと衰弱して絶命されたのではなく、大声で叫ばれた後、突然こうべを垂れて死なれたのである。ローマ兵がその脇腹を突き刺したとき、血と水が流れ出た。それは、彼が心臓の破裂によって死なれたことを示していた。

 

キリストは、不義の人類のためにあわれみのとりなしがやんだ時に罪人が感じる苦悩を感じられた。キリストが飲まれたさかずきをこんなにもにがいものとし、神のみ子を悲しませたのは、人類の身代わりとしてキリストに神の怒りをもたらしている罪についての観念であった。

 詩篇には、キリストの苦難を預言した言葉がある。「数えがたい災いがわたしを囲み、わたしの不義がわたしに追い迫って、物見ることができないまでになりました。それはわたしの頭の毛よりも多く、わたしの心は消えうせるばかりになりました」(詩篇4012。私たちの罪が彼の罪となった故に、彼の罪は頭の毛よりも多かった。このために、彼の心の臓は機能停止したのであった。別の言い方をするなら、心臓破裂である。現在、私たちが犯す一つひとつの罪は、神の御子を再び十字架の苦悶へと引きずり戻すものであるのに、どうして罪の生活を続けることができようか? 私たちが罪をやめて、キリストのような品性を発達させることのできる唯一の方法は、神の愛を目の当たりにして感動し、生活のうちにその愛をあらわすことである。

  説教集:愛とゆるし 4  裏切りの街角

それから数時間後、キリストは裏切り者ユダの手引きによって、あれよあれよという間に捕らえられ、縛られて引き立てられていきました。その時、弟子たちはどうしたかというと、「皆イエスを見捨てて逃げ去った」と聖書にあります。(マタイ26章56節)

キリストが逮捕されるという、信じられないことが起きて、弟子たちはクモの子を散らすように逃げていってしまったのです。しかしペテロは、少し逃げたのですが、気を取り直すと、キリストのことが気になり、後をつけていって裁判の傍聴人の中にまぎれこみ、キリストのようすをうかがうことにしました。キリストの裁判は、当時の宗教指導者であった大祭司の館で行われました。ペテロはその中庭まで入っていき、裁判のなりゆきを心配そうにチラチラ眺めていたのです。その姿があまりにも不自然だったためか、ペテロはついに一人の女中に見咎められてしまいます。「あなたもあのガリラヤ人イエスと一緒だった」(同26章69節)。一瞬の虚を衝かれたペテロは思わず「そんな人は知らない」と答えます。

自分の身に危険を感じたペテロは何くわぬ顔で外へ出ようとしますが。また、「あなたはイエスと一緒にいたじゃないか」と咎められ、再び「そんな人は知らない」と言います。そして三度目に、「確かにあなたも彼らの仲間だ」と言われた時には、「その人のことは何も知らない」と、激しく誓って言ったのです。(同26章74節)

 ペテロが、無我夢中で「知らない、知らない」と言っていたその時、突然、鶏のけたたましい鳴き声があたり一面に響きわたりました。その声に、ハッと我に返ったペテロは、「『鶏が鳴く前に、三度私を知らないと言うであろう』と言われたイエスの言葉を思い出し、外に出て激しく泣き」ました。(同26章75節)

 なんということでしょうか。これはペテロにとって最悪、最低の事態でした。「あなたを知らないなどとは決して言いません」と言ったその数時間後に、本当に「知らない」と言って、キリストを拒んでしまったのです。ペテロは自分のふがいなさに泣き、とり返しのつかない自分の失敗に、拳で地面をたたいて後悔の涙にくれたことでしょう。「どうしてあんなことを言ってしまったのか。なんでキリストを裏切ったのか」。自分でもよくわからない、自分の心の複雑さに驚き、誓いにそむいた自分の弱さを思って嘆き悲しむペテロでした。






福音の道しるべ 45

2013年07月07日 | 日記

 

  福音の道しるべ 45

もしもキリストの苦しみが、肉体的苦痛だけによるものであったとしたら、彼の死は、他の殉教者たちの死以上に痛ましいものではなかったことになる。

 しかし、肉体の苦痛は、神のいとし子が味わわれた苦悶のほんの一部に過ぎなかった。世の罪が彼にのしかかり、犯された律法の刑罰を受けられた彼は、天父の怒りを痛感なさった。・・・罪が神と人との間を引き裂くのであるが、カルバリーのお方はその断絶を十分に悟り、強烈に感じられたのであった。彼は、暗黒の勢力に圧迫された。未来を明るくしてくれる一筋の光も、彼には見えなかった。

     

 ああ、何と偉大で驚くべき愛であろう。キリストの愛は、死よりも強いものであった。なぜなら彼は、私たちを罪から救うためならば、たとえご自分が永遠に失われようとも、私たちのために死なれる決意をなさったからである。これが、十字架の意味するところである。読者諸君、あなたはイエス・キリストに心をささげただろうか? すべての罪を捨て去って、十字架のもとにひれ伏しただろうか? もう二度と、キリストを十字架につけた罪を繰り返したくはないので、それらの罪を捨て去る力を祈り求めたことがあるだろうか? ひたすら神を愛し、神の御心だけを行うと決意しただろうか? もしそれをしていたら、あなたは贖いの経験をしていることになる。もしもこの経験をしていなければ、十字架のもとにひざまずくことをお勧めする。なおもキリストは、至聖所であなたを待っておられるのだから。


 

   説教集 愛とゆるし 3 上がったり下がったり

「お天気信仰」という言葉があります。日本人に多いそうで、お天気がいいと心がウキウキして楽しくなり、天気が悪くなるとイライラして、神も仏もあるものかと思ってしまう、心の状態が環境や感情に非常に左右されやすい人のことだそうです。いくらいい決心をしても、次の瞬間にはそれを破ってしまう。あるいは、三日坊主で、何事も長続きせず上がったり下がったりの毎日……。

しかし、考えてみますと、私たちは誰でも、そういう面を持っているようです。そして、私たちが環境や感情に左右されやすいものであること、いい決心をしてもなかなかそれを実行できないこと、そこに私たちの大きな問題があるのではないでしょうか。

実は聖書の中にも、私たちと同じような、いや、私たち以上に上がり下がりの激しかった人の事が出てきます。新約聖書マタイによる福音書26章31節~35節です。

その時、イエスは弟子たちに言われた、「今夜、あなた方は皆わたしにつまずくであろう。『私は羊飼いを打つ。そして、羊の群れは散らされるであろう』と、書いてあるからである」。……すると、ペテロはイエスに答えていった、「たとい、みんなの者があなたにつまずいても、わたしは決してつまずきません」。イエスは言われた。「よくあなたに言っておく。今夜、鶏が鳴く前に、あなたは三度わたしを知らないと言うだろう」ペテロは言った。「たといあなたと一緒に死なねばならなくなっても、あなたを知らないなどとは決して申しません」。弟子たちもみな同じように言った。

これは有名な、キリストの別れの説教の場面です。キリストは、まもなく自分がローマ兵によって捕らえられる運命にあることを悟っておられました。そこで、自分がいなくなった後も、弟子たちが失望することなく信仰を持ち続けていくようにと諭されたのです。特に、キリストという中心を失った弟子たちが、どんなにもろいかをよく知って、あらかじめ弟子たちのつまずきも予告しておられました。ところがそれが気にいらなかったとみえ、弟子のリーダー格ペテロは、キリストに、「どうしてそんな事をおっしゃるのですか。他の者ならいざ知らず、私はあなたにつまずくことなどありません。」と大見得をきりました。ペテロという人は、もともと漁師でしたから、おそらく腕っぷしなら誰にも負けないぞというような力自慢、筋骨たくましい勇み肌の人間であったことでしょう。しかも、キリストを信奉する心も、人一倍強かったのです。それなのにキリストが、十把ひとからげで、「みんなつまずく」と言われたので、たまらずそう答えたのでしょう。

それに対してキリストは、おだやかな口調で、「今夜、にわとりが鳴く前に、あなたは三度わたしを知らないと言うよ」と、もう一度念を押されました。そこまで言われたペテロは、悲しみと憤りの混じった心で、「たといあなたと一緒に死なねばならなくなっても、あなたを知らないなどとは、決して申しません」と叫びます。弟子たちもまた、同じように答えました