燔祭の捧げもの
では、最初にまず燔祭について学びましょう。なぜならレビ記でも4つの捧げ物の中で、最初に記録されているのが、この燔祭だからです。この燔祭は、人の神様に対する全的な献身を表しています。神様は、燔祭を一日に2回捧げるように言われました。朝と夕にそれぞれ捧げるように言われました。また、その煙は、昼夜決して途切れることなく、天に立ち上るようにするべきことを命じられました。これは神様が私たちに、このような献身した日々を送ってほしいと願っておられ、燔祭は、私たちの、思いも言葉も行動も、さらに、心の奥底の隠れた動機においても、純粋でなければならないことを教えています。
また燔祭について学ぶ時に、私たちは、義として認められる経験と、聖なる生涯を維持する聖化は同時に始まるものであり、その聖化の経験は、毎日継続しなければならないことを知ることが出来ます。
それでは燔祭を説明しているレビ記1章3~8節を読んでみましょう
「もしその供え物が牛の燔祭であるならば、雄牛の全きものをささげなければならない。会見の幕屋の入口で、主の前に受け入れられるように、これをささげなければならない。 彼はその燔祭の獣の頭に手を置かなければならない。そうすれば受け入れられて、彼のためにあがないとなるであろう。彼は主の前でその子牛をほふり、アロンの子なる祭司たちは、その血を携えてきて、会見の幕屋の入口にある祭壇の周囲に、その血を注ぎかけなければならない。彼はまたその燔祭の獣の皮をはぎ、節々に切り分かたなければならない。祭司アロンの子たちは祭壇の上に火を置き、その火の上にたきぎを並べ、アロンの子なる祭司たちはその切り分けたものを、頭および脂肪と共に、祭壇の上にある火の上のたきぎの上に並べなければならない」。
この聖所の儀式は、救い主イエス様の犠牲とあがないの働きを象徴するものでしたが、同時に、主に従っていく信仰者の、たどるべき過程を象徴していることも忘れてはなりません。従ってこれから、聖所の犠牲制度の学びを通して、私たち一人ひとりが経験しなければならない、信仰の各段階について見ていきたいと思います。
まず、燔祭として捧げられるいけにえは、傷のないものでなければなりませんでした。そのいけにえの頭に手を置き、自分の全ての罪を告白しました。さらにその供え物を連れて来た罪人が、刃物を取って、自分の手でその動物を殺さなければなりませんでした。それは明白に自分の罪が、罪のない神様の小羊を殺したことを悟らせます。それから祭司が、その犠牲の血を祭壇の周囲に注ぎました。それは、イエス・キリストの血が、世界の隅々にまで及んでいる罪を清める力があることを示していました。また、主の血は、私たちを救うだけでなく、罪の呪いの中にある地球全体を、救い出すものであることを表していました。
ローマ人への手紙8章19~22節には、被造物全体が、栄光の自由に入る望みをもって、神様のご品性を反映する、神の子の出現を切に待ち望んでいる、という言葉があります。人間が罪を犯したために呪われた、この地球全体と、その中の生きとし生けるものすべてが、創造当時の状態に回復されるのを待っているのです。