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ひまわりさんの日々の信仰日記と再臨信仰のエッセンスについてご紹介しています

聖所 第4回 デイビット カン講演

2016年02月24日 | 日記

 燔祭の捧げもの

では、最初にまず燔祭について学びましょう。なぜならレビ記でも4つの捧げ物の中で、最初に記録されているのが、この燔祭だからです。この燔祭は、人の神様に対する全的な献身を表しています。神様は、燔祭を一日に2回捧げるように言われました。朝と夕にそれぞれ捧げるように言われました。また、その煙は、昼夜決して途切れることなく、天に立ち上るようにするべきことを命じられました。これは神様が私たちに、このような献身した日々を送ってほしいと願っておられ、燔祭は、私たちの、思いも言葉も行動も、さらに、心の奥底の隠れた動機においても、純粋でなければならないことを教えています。 

また燔祭について学ぶ時に、私たちは、義として認められる経験と、聖なる生涯を維持する聖化は同時に始まるものであり、その聖化の経験は、毎日継続しなければならないことを知ることが出来ます。

それでは燔祭を説明しているレビ記1章3~8節を読んでみましょう

「もしその供え物が牛の燔祭であるならば、雄牛の全きものをささげなければならない。会見の幕屋の入口で、主の前に受け入れられるように、これをささげなければならない。 彼はその燔祭の獣の頭に手を置かなければならない。そうすれば受け入れられて、彼のためにあがないとなるであろう。彼は主の前でその子牛をほふり、アロンの子なる祭司たちは、その血を携えてきて、会見の幕屋の入口にある祭壇の周囲に、その血を注ぎかけなければならない。彼はまたその燔祭の獣の皮をはぎ、節々に切り分かたなければならない。祭司アロンの子たちは祭壇の上に火を置き、その火の上にたきぎを並べ、アロンの子なる祭司たちはその切り分けたものを、頭および脂肪と共に、祭壇の上にある火の上のたきぎの上に並べなければならない」。

 この聖所の儀式は、救い主イエス様の犠牲とあがないの働きを象徴するものでしたが、同時に、主に従っていく信仰者の、たどるべき過程を象徴していることも忘れてはなりません。従ってこれから、聖所の犠牲制度の学びを通して、私たち一人ひとりが経験しなければならない、信仰の各段階について見ていきたいと思います。

 

まず、燔祭として捧げられるいけにえは、傷のないものでなければなりませんでした。そのいけにえの頭に手を置き、自分の全ての罪を告白しました。さらにその供え物を連れて来た罪人が、刃物を取って、自分の手でその動物を殺さなければなりませんでした。それは明白に自分の罪が、罪のない神様の小羊を殺したことを悟らせます。それから祭司が、その犠牲の血を祭壇の周囲に注ぎました。それは、イエス・キリストの血が、世界の隅々にまで及んでいる罪を清める力があることを示していました。また、主の血は、私たちを救うだけでなく、罪の呪いの中にある地球全体を、救い出すものであることを表していました。

ローマ人への手紙8章19~22節には、被造物全体が、栄光の自由に入る望みをもって、神様のご品性を反映する、神の子の出現を切に待ち望んでいる、という言葉があります。人間が罪を犯したために呪われた、この地球全体と、その中の生きとし生けるものすべてが、創造当時の状態に回復されるのを待っているのです。


聖所 第3回 デイビット カン講演

2016年02月23日 | 日記

 聖所の外庭の経験

 それでは、聖所の外庭では、何を見ることが出来るでしょうか? 2つの物を見ることが出来ます。燔祭のための祭壇と洗盤です。これらは、罪を焼きつくし、また、それを洗うための器物です。外庭は、神様がどのように罪人の心から罪を聖め、洗い、取り除くのかを教えるためにデザインされているものです。この外庭の経験は義認の経験です。まず、外庭においてなされることは、燔祭として連れてきた羊、山羊の頭に手をおいて、全ての罪を告白することでした。この燔祭を捧げる時、覚えておかなければならないことは、もし、罪を犯した人が祭司だった場合、最も高価な子牛を捧げる必要があったということです。

全イスラエルが罪を犯した際に捧げる燔祭も子牛でした。ということは、神様にとって、祭司が罪を犯すというのは、全イスラエルが罪を犯したのと同じくらい深刻だということなのです。民の司たちが罪を犯した際は、雄ヤギを捧げることになっていました。また、一般の会衆の場合は、雌山羊が要求されました。こうしたことを見てみると、どの立場にある人が罪を犯すかによって、その捧げる物の価値が変わってくるということがわかります。罪は誰が犯しても、罪ですが、大きな光を受けた人にはより大きな責任が伴うことがわかります。燔祭において、捧げる人が貧しい人々で、動物を捧げることが出来ない人は、鳩などを捧げることが出来ました。

 捧げものには4種類ありました。この4つの捧げ物にはそれぞれの目的と意味がありました。まずは、罪際です。これは、罪を犯した時に捧げるものですね。そして、次が愆祭(けんさい)です。これは、罪祭と同類のものですが、特に、盗みや欺き、他人のものを壊したとき、また主の聖なるものに対して罪を犯したときに捧げるものが愆祭です。そして、3番目が、燔祭です。これは、罪人が神様に全てを捧げることを表明するものです。燔祭は、神様への奉仕へ自らを捧げることを象徴しています。燔祭は自己犠牲と完全な服従を意味しています。そして、4番目が酬恩祭です。これは、罪人の神様に対する感謝を表すものです。その大きな憐みと罪の赦しによって、神様との関係が回復したことに対する感謝を表す儀式が酬恩祭です。皆さん、私たちはこの4つの捧げ物を通して、どのようにして神様に近づき、その恵みにあずかるかを学ぶことが出来るのです。


聖所 第2回 デイビット・カン講演

2016年02月22日 | 日記

  聖所の入口で

 罪人が聖所の門の前に立つ時、そこには、3色の垂れ幕がありました。その垂れ幕の色は、赤、青、紫です。祭司は、その色が持つ意味を説明するのです。赤は、私たちの罪を清めるために流される小羊イエス・キリストの犠牲の血を表しています。このキリストの犠牲への信仰なくして、罪が清められることはありません。

ヘブル人への手紙9章22節には、こうあります。

「こうして、ほとんどすべての物が、律法に従い、血によってきよめられたのである。血を流すことなしには、罪のゆるしはあり得ない」。

青の色は、神様の民の従順を表しています。この色は、神様の律法への従順を表しています。神様は、イスラエルの民に神様への従順を表すために、衣服の裾に青い房をつけるように言われました。そのことが民数記15章38節に書いてあります。

「イスラエルの人々に命じて、代々その衣服のすその四すみにふさをつけ、そのふさを青ひもで、すその四すみにつけさせなさい」。 

 

彼らが普段の生活で道を歩くときにも、自分たちが神様の律法に従順な民であることを覚えるために、このような命令を神様はされたのです。イエス様に女性特有の病を癒やされた女性の話をご存知ですよね?イエス様の服の裾に彼女が触ったときに、彼女は癒されたのです。彼女は、青いふさに触ったのです。その時、彼女の病が癒されました。その青色です。青色は、天の父なる神様への完全な服従を表しています。毎日の生活における、神様の律法への従順な生活を表しているのです。私たちの主イエス様が表された完全な服従の生涯は、救いの力によって、人類もそれが可能であることを表しています。

 

紫の色は、王家の一員であることを表しています。当時、紫というのは、とても貴重な貝をたくさん使って、染めていました。その貝は、紅海で採取されていたのですが、そういったことから、紫色の衣服というのは、とても高価だったのです。そして、その紫の衣を着ることが出来るのは、貴族、王族だけだったからです。

赤と青を混ぜると何色になるでしょうか? そうです。紫ですね。私たちがイエス様の血で洗われ、神様の律法に従順な民となる時、私たちは、天の王家の一人となるのです。

こういった説明を聖所の門で祭司が罪人にすると、彼の心に救いに対する希望が湧き上がってくるのです。


聖所 2 デイビット・カン講演より 第1回

2016年02月21日 | 日記

   聖所は救いの青写真

 こんにちは。聖所セミナーへようこそ。

まず、前回の学びの復習をしたいと思います。聖所の目的とは何だったでしょうか?

神様はなぜ、この地上に聖所を造るように言われたのでしょうか。確信を持って言えることは、この聖所のメッセージこそ私たちを現代のイスラエル、真の神様の民とするものだということです。聖所のメッセージは、救いの問題を明確にする青写真です。私たちは、イエス様の真の福音を伝える使命を持っています。それは、永遠の福音です。聖所のメッセージは、神様がどのように私たちの心から罪の問題を解決するかを教えてくれるものであります。神様は、3つの段階を通して罪の問題を解決されるのです。それは、外庭、聖所、至聖所です。これらは、それぞれ義認、聖化、そして、調査審判の経験を表しています。

詩篇77:13 欽定訳には、「おお、神様、あなたの道は聖所にあります」と書いてあります。

 また、出エジプト記25:8にはこうあります。

「また、彼らにわたしのために聖所を造らせなさい。わたしが彼らのうちに住むためである」。

 今回の講義では、聖所の外庭の経験、義認について考えていきましょう。前回の講義でもお話しましたが、聖所の経験というのは、罪人が罪の意識を持ち、自分の家畜の中から、傷のない燔祭を選ぶところから始まります。彼が聖所に燔祭を連れて歩いて行くと、3つのものが見えます。第1に白い亜麻布、2番目に燔祭から立ち上る煙、3番目に神様の臨在を現す雲の柱、です。

 罪人は、神様がこの聖所に招いておられることを感じるのです。「ここに来て、救いを受けなさい。私は、ここにいる!」。神様の愛を感じるのです。

罪人が聖所の前に着くと、門の前で、祭司たちに迎えられます。祭司たちの仕事は、罪人が燔祭の意味と、その捧げ方の手順を教えることです。どのようにして、神様に受け入れられるのか、どのように罪を告白し、そして、犠牲を捧げるのかを教えるのです。神様のみ前にどのような心で出るべきかを教えるのです。牧師の仕事というのは、どのようにして義とされるのかということを神の民に教えることです。言い換えるならば、信仰による義認の経験へと導くことです。

 この働きがなされないならば、場合によっては、罪人が神様に受け入れられることなく、間違った安心感をもって、家に帰ってしまうことさえあるのです。


イスラムの台頭と聖書の預言 最終回

2016年02月20日 | 日記

主イエスよきたりませ

 聖書は、イエス様が間もなくおいでになると、語っています。私たちを救い出すために、この地球を全く新しいものとするために。すべて古いものは過ぎ去って新しくなるわけです。それが、私たちが希望を持てる唯一の解決法なのです。イエス様がおいでになること、なぜおいでになるのでしょう。私たちを愛されるからです。私たちを大事に思っておられるからです。皆さん一人ひとりをほんとうに大切に思っていらっしゃいます。皆さん個人個人の人生に、関心を持っておられます。そして皆さんお一人おひとりと、共に天国で一緒に過ごしたいと、イエス様は思っていらっしゃいます。

私は皆さんに真実を語っています。聖書に述べられているイエス様は、間もなくおいでになります。私たちはイエス様にだけ、全的信頼を置くことが出来るのです。皆さん今、心の中でイエス様に祈っていただきたいのです。イエス様、神様、私を憐れんで下さい。私の家族を憐れんで下さい。この世界には希望がありません。唯一の希望はあなたが聖書に記された約束だけです。どうか私を助けて下さい。私を教えて下さい。信仰について教えて下さい。私の思いに理解力を与えて目を開かせて下さい。罪の縄目からまず私を解き放って下さい。そして私に清い、新しい心を持たせて下さい。そうする時に、私はイエス様の足もとで、ひざまずいて心からあなたに愛を表明することが出来るでしょう。イエス様どうかあなたがおいでになるとき、私の名を覚えて下さい。

そのような祈りを、皆さんお一人おひとり捧げていただきたいのです。そのとき、神様が皆さんの心に入ってこられて、皆さんはこの世の罪の世から救い出されることがお出来になるのです。

聖書はこの約束の言葉で終わっています。「これらのことをあかしするかたが仰せになる。『しかり、わたしはすぐに来る』。アァメン、主イエスよ、来たりませ」(黙示録24:20)。私もこのように言いたいと思っています。

これが私たちの唯一の救いです。この世界の問題の唯一の解決方法です。私たちは今、第三の災いの時代、イスラムの台頭する時代に住んでいるということを覚えて下さい。これは真実です。時はもうそう長くは残されていません。

単純な言葉でイエス様に向かっておっしゃって下さい。「もっともっと知りたいです。もっとあなたについて学びたいです。あなたがまたおいでになるとき、あなたの王国がやって来るときには、どうぞ私の名を覚えて下さい」。

今、そのように思われた方がいらっしゃれば、そっとで良いですからから手を挙げて下さいませんか?神様の祝福が皆様の上にありますように。皆様の心を神様は見ておられます。神様が聖霊の識別力、理解力をお与えになることでしょう。

 

お祈りいたしましょう。

「天のお父様、あなたの私たちに対する憐れみ、親切を感謝いたします。主イエス様、どうか私たちを助け救い出して下さい。まず、私たちを罪からお救い下さい。この破壊的な世から私たちをお救い下さい。あなたがおいでになるとき、どうぞ私たちの名前を覚えて下さい。どうぞ私たちの祈りをお聞き下さいますように。あなたのみ言葉に信仰を置きたいからです。祈りを聞いて下さって、ありがとうございます。イエス・キリストのみ名によってお祈りいたします」。アーメン