2011年10月5日-1
28年前の「科学的」装い
全国大学生活協同組合連合会が発行する『読書のいずみ』の通巻17号は、特集の主題が「核・軍縮・エコロジー??同時代のアイデンティティー」のようである。1983年6月11日発行とある。
下記に引用する川口啓明氏の文は、原発についても、当てはまるところがあるだろう(要分析)。今日では、どのような種類と程度の「科学的」装いをまとったリスク論またはリスク学が、どのような人たちに利用されているのか? あるいは、国民や地域民の人たちにとって、役立つのか?
「 現代社会は、科学(およぴその政策的形態である技術)によって、大いなる便益を得ている。
〔略〕
〔略〕サリドマイドの薬害が疑われた時、アメリカの食品薬剤庁の係官は、敏感に反応し、合衆国〔→合州国〕でサリドマイドが市販されることを阻止した。一方、日本の厚生省の担当課長は「医薬品で奇形が起こるとは全く奇想天外のこと」と考え、だらだらと対応を遅らせ、千人を越える障害をもった子どもが生れることとなった(砂原茂一、「薬その安全性」岩波新書よリ)。この差は一体何からくるのであろうか?医薬品であるから、市販されるには、それなりの実験がおこなわれ、データが整えられて販売が申請されてくる。その時、その一連の手続きで〝科学的〟に安全性が証明され決着がついたと考えるのか、それを科学的真理に向かう認識のうえでの一つの判断材料にすぎないと考えるのかの差ではないのだろうか?日本では、どうも科学方法論上のある手続きをとることが、いつの間にか権威化され、〝科学〟になりかわってくるのである。
〔略〕
〔略〕食品添加物を使用するかどうかは、実は社会科学的な問題であるのだが(たとえば、合成保存料をたっぷりと使って食品を長持ちさせ、貧しい人々にも安い食物を、という考え方か、前提となっている貧困そのものをなくす社会をつくり出していくのか、ということの差)、食品添加物を増やしていこうとする立場からは、〝科学〟が持ち出されてくるのである。厚生省がいうとおり、個々の食品添加物は、〝科学的〟に安全性が証明されている。しかしながら、この〝科学的〟という内容が、恐しくお粗末なのである。(関心のある読者は、たとえぱ、橘敏明『医薬品・食品添加物の〝安全性〟神話』汐文社を参照されたい。)要するに、ある手続き上の限定的な実験をおこなうことが、即、全面的に科学的安全性を証明するものと考えられているのである。」(川口啓明 1983: 38-39頁)。
[K]
川口啓明.1983.6.科学ははたして日本人に根づいているか?.読書のいずみ〔全国大学生活協同組合連合会発行〕(17): 38-39.