2012年2月20日-1
現代美術、説明、絵画
2012年1月7日、ジャクソン ポロックについてのシンポジウムが、名古屋であった。最初の講演は藤枝晃雄氏によるものだったが、確か東京都現代美術館の或る学芸員を批判していた。どの点を批判しているのかよくわからなかった。また、その理由や根拠は述べられなかったと思う。(聞き間違いでなければ、「造形」という言葉か、『造形』という概念を、批判していた。どういう意味の造形なのか、どういう点で良くないのかも説明は無かった。『造形』とは何だろうか?)
で、ウィキペディアで東京都現代美術館の項:
http://ja.wikipedia.org/wiki/東京都現代美術館
で見ると、そのなかに、「石原知事の発言への批判」という記事があり、
「2006年4月20日、カルティエ現代美術財団コレクション展の開幕セレモニーに来賓として招かれた石原慎太郎都知事が現代美術について「無そのもの」「笑止千万」と発言した」
http://ja.wikipedia.org/wiki/東京都現代美術館#.E7.9F.B3.E5.8E.9F.E7.9F.A5.E4.BA.8B.E3.81.AE.E7.99.BA.E8.A8.80.E3.81.B8.E3.81.AE.E6.89.B9.E5.88.A4[受信:2012年2月20日]
とある。
「石原慎太郎 現代美術 無そのもの」でGoogle検索してみた。すると、第一位に、
石原しんたろ「現代美術は無そのもの」/ル・フィガロ 他
2006-04-29 18:39:53 | 社会
http://blog.goo.ne.jp/harumi-s_2005/e/8f90527be7d0714d163715d7080b2e9
が出ていた。
そこには、リベラシオン紙2006年4月24日のミシェル・テマン「東京都知事、現代美術を腹にすえかね カルチエ財団、展覧会の開会式でとんだ「とばっちり」」という記事(http://blog.goo.ne.jp/harumi-s_2005/e/8f90527be7d0714d163715d7080b2e96から引用)があり、
「彼〔石原慎太郎氏〕が述べるところによれば、「見る者に説明を要する現代美術というのは無に等しい。」そして、最後のとどめのように、「日本の文化は西洋文化よりもよほど美しい。」会場内には衝撃が走った。一部には、これを冗談と受けとめ、笑い声を上げる人もいる。しかし、多くの人々は憤慨をあらわにした。」
とある。
a. 見る者に説明を要する現代美術というのは無に等しい。
という言明または主張は、現代美術一般ではなくて、「見る者に説明を要する現代美術」という、限定された範囲の現代美術作品を指していると思う(多くの人はそう解釈すると思う)。「聞く者」や「聴く者」ではなく、「見たり聴いたりする者」でもないという点は、さておこう。「説明を要する」というところに注目しよう。現代美術との関わり方に関係しており、とりわけ抽象絵画では本質的だと考えるからである。
むろん、説明抜きで「美しい」、これが抽象絵画である(なお、美醜は、鑑賞者[製作者も、自分の作品を製作途中であれ、見るとときは鑑賞者]の諸性質に依存する)。もちろん、「説明抜きで」にも様々な種類と段階または程度がある。抽象絵画に限らず、感性を磨いたり鑑賞力を開発することには、様々な種類と段階または程度がある。
「わたし、この絵、わかりませ~ん」と言う場合、ではどういう心的状態または脳神経系状態になれば、或る対象をわかったというのだろうか。『説明』とは、まずは言語的な人間活動である。たとえば、「この絵は、或る人を描いています」とか、「あの絵は、或る人の感情を表しています」と解説すれば、その絵画(後に、『絵』や『画』を再分類することになるかもしれない)が、理性や[『や』を、『または』と『かつ』の両方を指示する記号として使用する]情緒ないし感情の『わかった』という或る範囲の状態(これらを一括して、「心的状態」という語で呼ぼう)になるのだろうか。
説明されれば分かることと、絵画の鑑賞とは異なる。ただし、視覚を通しての注意力というのは限定的である。人の空間分解能に依存して、物体は表面という被覆しているという知覚となる。たとえば、人体の皮膚である。そこでまず、絵画を定義しておこう。
絵画とは、なんらかの表面に絵具を用いて展示される物体である。[絵画の質料的定義。A material definition of a picture. 厳密には、A material definition of the concept "picture". ]
[なお、『線』とは、線とみなされた面[厳密に言えば、立体物]である]
まず、対象の大きさと見る者[または観者、または観覧者]との関係の問題がある。大きな絵画であれば、(人の場合)細部の詳細は見えない。近くで見れば、絵画の全体は見えない。[→様々な距離と角度から絵画を観ること、またそれを考慮した絵画の製作法]
〔つづく〕
現代美術、説明、絵画
2012年1月7日、ジャクソン ポロックについてのシンポジウムが、名古屋であった。最初の講演は藤枝晃雄氏によるものだったが、確か東京都現代美術館の或る学芸員を批判していた。どの点を批判しているのかよくわからなかった。また、その理由や根拠は述べられなかったと思う。(聞き間違いでなければ、「造形」という言葉か、『造形』という概念を、批判していた。どういう意味の造形なのか、どういう点で良くないのかも説明は無かった。『造形』とは何だろうか?)
で、ウィキペディアで東京都現代美術館の項:
http://ja.wikipedia.org/wiki/東京都現代美術館
で見ると、そのなかに、「石原知事の発言への批判」という記事があり、
「2006年4月20日、カルティエ現代美術財団コレクション展の開幕セレモニーに来賓として招かれた石原慎太郎都知事が現代美術について「無そのもの」「笑止千万」と発言した」
http://ja.wikipedia.org/wiki/東京都現代美術館#.E7.9F.B3.E5.8E.9F.E7.9F.A5.E4.BA.8B.E3.81.AE.E7.99.BA.E8.A8.80.E3.81.B8.E3.81.AE.E6.89.B9.E5.88.A4[受信:2012年2月20日]
とある。
「石原慎太郎 現代美術 無そのもの」でGoogle検索してみた。すると、第一位に、
石原しんたろ「現代美術は無そのもの」/ル・フィガロ 他
2006-04-29 18:39:53 | 社会
http://blog.goo.ne.jp/harumi-s_2005/e/8f90527be7d0714d163715d7080b2e9
が出ていた。
そこには、リベラシオン紙2006年4月24日のミシェル・テマン「東京都知事、現代美術を腹にすえかね カルチエ財団、展覧会の開会式でとんだ「とばっちり」」という記事(http://blog.goo.ne.jp/harumi-s_2005/e/8f90527be7d0714d163715d7080b2e96から引用)があり、
「彼〔石原慎太郎氏〕が述べるところによれば、「見る者に説明を要する現代美術というのは無に等しい。」そして、最後のとどめのように、「日本の文化は西洋文化よりもよほど美しい。」会場内には衝撃が走った。一部には、これを冗談と受けとめ、笑い声を上げる人もいる。しかし、多くの人々は憤慨をあらわにした。」
とある。
a. 見る者に説明を要する現代美術というのは無に等しい。
という言明または主張は、現代美術一般ではなくて、「見る者に説明を要する現代美術」という、限定された範囲の現代美術作品を指していると思う(多くの人はそう解釈すると思う)。「聞く者」や「聴く者」ではなく、「見たり聴いたりする者」でもないという点は、さておこう。「説明を要する」というところに注目しよう。現代美術との関わり方に関係しており、とりわけ抽象絵画では本質的だと考えるからである。
むろん、説明抜きで「美しい」、これが抽象絵画である(なお、美醜は、鑑賞者[製作者も、自分の作品を製作途中であれ、見るとときは鑑賞者]の諸性質に依存する)。もちろん、「説明抜きで」にも様々な種類と段階または程度がある。抽象絵画に限らず、感性を磨いたり鑑賞力を開発することには、様々な種類と段階または程度がある。
「わたし、この絵、わかりませ~ん」と言う場合、ではどういう心的状態または脳神経系状態になれば、或る対象をわかったというのだろうか。『説明』とは、まずは言語的な人間活動である。たとえば、「この絵は、或る人を描いています」とか、「あの絵は、或る人の感情を表しています」と解説すれば、その絵画(後に、『絵』や『画』を再分類することになるかもしれない)が、理性や[『や』を、『または』と『かつ』の両方を指示する記号として使用する]情緒ないし感情の『わかった』という或る範囲の状態(これらを一括して、「心的状態」という語で呼ぼう)になるのだろうか。
説明されれば分かることと、絵画の鑑賞とは異なる。ただし、視覚を通しての注意力というのは限定的である。人の空間分解能に依存して、物体は表面という被覆しているという知覚となる。たとえば、人体の皮膚である。そこでまず、絵画を定義しておこう。
絵画とは、なんらかの表面に絵具を用いて展示される物体である。[絵画の質料的定義。A material definition of a picture. 厳密には、A material definition of the concept "picture". ]
[なお、『線』とは、線とみなされた面[厳密に言えば、立体物]である]
まず、対象の大きさと見る者[または観者、または観覧者]との関係の問題がある。大きな絵画であれば、(人の場合)細部の詳細は見えない。近くで見れば、絵画の全体は見えない。[→様々な距離と角度から絵画を観ること、またそれを考慮した絵画の製作法]
〔つづく〕