ラマチャンドラン。2013.3。脳のなかの天使。451頁、472 g。角川書店。ISBN-10:4041101042
人類経済 human economy と(人類以外の)生物類経済 bioeconomy
物質の種類と量の変換
通貨 currency に相当するもの生物界では、エネルギーであり、生物たちは、エネルギーの種類変換と変量を行なっている。
地球に入ってくる太陽からのエネルギーを細菌や植物が硫黄や二酸化炭素を使って、エネルギーを体内に固定または保持する。
ど動物は植物や他の動物を食べて、物体を分解し合成し、身体を作り、またエネルギーを消費する。
人間社会においては、通貨とは構築体であり、現金と呼ばれる紙幣または硬貨がその概念の例示物体である。しかし、日本国の2012年3月現在でのM3統計では、現金供給量は77兆円で、預金という銀行の数値上でのものは1037兆円だそうである(天野統康『サヨナラ!操作された「お金と民主主義」なるほど!「マネーの構造」がよーくわかった』、19頁による)。
1000兆円の金 gold が日本銀行に保管されているわけではないだろうし、労働力が銀行に保持されているわけでもない。貨幣または預金口座の数値操作で半強制的に買うことはできる。
現代の危機は、主要な政治経済的分野での危機である。
?「資本主義社会は借金によって通貨が作られるので、国も企業も借金の返済に追われる日々を過ごすことになる。この借金経済システムは、借金をし続けることによって消費と生産力を拡大させ続けるようになったため、経済成長という副産物を与えた。なぜなら、社会が借金の返済を行〔な〕うには、今ある通貨だけでは足りないからである。」(天野統康『サヨナラ!操作された「お金と民主主義」なるほど!「マネーの構造」がよーくわかった』、60頁)。
「借金の利子付き通貨は、商品と交換ができるという特徴を持つとともに、利子分の返済というノルマを与えるために、社会全体を売り上げ利益の拡大にいざなう「経済成長強制システム」なのだ。」(天野統康『サヨナラ!操作された「お金と民主主義」なるほど!「マネーの構造」がよーくわかった』、60-61頁)。
物質の種類と量の変換
通貨 currency に相当するもの生物界では、エネルギーであり、生物たちは、エネルギーの種類変換と変量を行なっている。
地球に入ってくる太陽からのエネルギーを細菌や植物が硫黄や二酸化炭素を使って、エネルギーを体内に固定または保持する。
ど動物は植物や他の動物を食べて、物体を分解し合成し、身体を作り、またエネルギーを消費する。
人間社会においては、通貨とは構築体であり、現金と呼ばれる紙幣または硬貨がその概念の例示物体である。しかし、日本国の2012年3月現在でのM3統計では、現金供給量は77兆円で、預金という銀行の数値上でのものは1037兆円だそうである(天野統康『サヨナラ!操作された「お金と民主主義」なるほど!「マネーの構造」がよーくわかった』、19頁による)。
1000兆円の金 gold が日本銀行に保管されているわけではないだろうし、労働力が銀行に保持されているわけでもない。貨幣または預金口座の数値操作で半強制的に買うことはできる。
現代の危機は、主要な政治経済的分野での危機である。
?「資本主義社会は借金によって通貨が作られるので、国も企業も借金の返済に追われる日々を過ごすことになる。この借金経済システムは、借金をし続けることによって消費と生産力を拡大させ続けるようになったため、経済成長という副産物を与えた。なぜなら、社会が借金の返済を行〔な〕うには、今ある通貨だけでは足りないからである。」(天野統康『サヨナラ!操作された「お金と民主主義」なるほど!「マネーの構造」がよーくわかった』、60頁)。
「借金の利子付き通貨は、商品と交換ができるという特徴を持つとともに、利子分の返済というノルマを与えるために、社会全体を売り上げ利益の拡大にいざなう「経済成長強制システム」なのだ。」(天野統康『サヨナラ!操作された「お金と民主主義」なるほど!「マネーの構造」がよーくわかった』、60-61頁)。
2013年6月20日-2
いのち絵画、または、有機的抽象絵画の技法、二
その前に、観覧ないし鑑賞は、絵画という見られる対象に対して観る者(viewer)が積極的ないし受動的に反応する結果として、成立すると仮定することにする。システム的に考えれば、或る環境条件下で、或る人が絵画という対象に感性的相互作用をする結果である。観覧者の条件または状態も、多くの絵画を飽きるほど見てきてもう賞味し尽くしたと思う人から絵画なんてわからんといった人まで、また時と場合に応じて様々である。
したがって、感者を分類する必要がある。
絵画製作者にとっては、どのような材質の支持体にどのような絵具でどのような製作手順の場合に、どのような見えのこうかとなるのか、これが興味深いところである。
既製品を組み合わせて、美術品と見なされる物体を作ることは可能である。廃物から素敵なものを構成することもできる。
ならば、材料要素が、美しいものをうまく組み合わせれば、ひょっとして素晴らしく感動的な作品が、かつ展示条件もうまくしつらえれば、できるかもしれない。では、新しい美を見い出す感性能力とはどのようなものだろうか?
たとえば、絆という言葉を、どう捉えるのか、それで問題が解決するのかを示さずにもちいるならば、現在の金力を振るう強欲者たちに利用されることになる。
御用絵師は、絵または画によって、時の権力者の権力誇示や権勢保持に役立つことで、碌を得ていた者である、と定義しよう。日本の現在とは、2011年3月11日以降の数日間に原発事故が、原子力ムラ集団によって、時代遅れの機械の採用と管理上のサボりによって起こされたという歴史的時点である。(歴史は、出来事によって、区切られる。)
いのち絵画、または、有機的抽象絵画の技法、二
その前に、観覧ないし鑑賞は、絵画という見られる対象に対して観る者(viewer)が積極的ないし受動的に反応する結果として、成立すると仮定することにする。システム的に考えれば、或る環境条件下で、或る人が絵画という対象に感性的相互作用をする結果である。観覧者の条件または状態も、多くの絵画を飽きるほど見てきてもう賞味し尽くしたと思う人から絵画なんてわからんといった人まで、また時と場合に応じて様々である。
したがって、感者を分類する必要がある。
絵画製作者にとっては、どのような材質の支持体にどのような絵具でどのような製作手順の場合に、どのような見えのこうかとなるのか、これが興味深いところである。
既製品を組み合わせて、美術品と見なされる物体を作ることは可能である。廃物から素敵なものを構成することもできる。
ならば、材料要素が、美しいものをうまく組み合わせれば、ひょっとして素晴らしく感動的な作品が、かつ展示条件もうまくしつらえれば、できるかもしれない。では、新しい美を見い出す感性能力とはどのようなものだろうか?
たとえば、絆という言葉を、どう捉えるのか、それで問題が解決するのかを示さずにもちいるならば、現在の金力を振るう強欲者たちに利用されることになる。
御用絵師は、絵または画によって、時の権力者の権力誇示や権勢保持に役立つことで、碌を得ていた者である、と定義しよう。日本の現在とは、2011年3月11日以降の数日間に原発事故が、原子力ムラ集団によって、時代遅れの機械の採用と管理上のサボりによって起こされたという歴史的時点である。(歴史は、出来事によって、区切られる。)
2013年6月20日-1
いのち絵画、または、有機的抽象絵画の技法
絵画の定義
定義1a
絵画とは、何らかの物体の表面に、なんらかの結合手段によって、なんらかの絵具を配置した物体である。
地球表面においては、地球重力がいたるところで働いている。床に賽子を一つ置けば、そして絵具で賽子の目が表されていれば、それは三次元的絵画である。なお、時間とは記述や測定のためのわれわれな工夫であり、実在するものではない。
たとえば蝶の翅とか孔雀の羽根の色は、構造色である。絵画は視覚に関わるものだとすると、定義1aは絵具、つまりなんらかの顔料を pigmentを使うという限定のある狭い定義である。色が見えれば、顔料によるか、表面構造のよるかを問わなければ、あるいはむしろ、膠彩画のように表面構造が見えに影響しているのは明らかなのだから、絵画とは表面体の一形式である、と定義範囲を拡張することにする。
定義1b
絵画とは、なんらかの物体の表面を、見えの上でなんらかの手段によって彩色した物体である。
彩色とは、白黒の明暗だけの場合を含むこととする。彩度がゼロの場合を含むということである。
ふ
表面は、真っ平らかもしれないし、曲がっているかもしれない。球体は、球面という一つの表面となっている。直方体は、
六面体であり、六つの隣接する絵画世界を提示できる。ヘリウムを入れて空中に浮かべることもできよう。
表面に穴が空いていて、真後ろとか曲がってどこかに穴が通じていてもよい。表面構造が入り組んでいるだけである。
彫刻作品とは掘ったり刻んだりという作用が行なわれた作品である。塑像作品は、逆に材料を付加して作っていく。
いかなる立体も、その表面によって、われわれは認識する。触覚はことにそうである。(存在するとしてだが)エーテル視力または四次元的視力を使うことができる者は、レントゲン像のように表面を貫いた像を得ることができるらしい。
通常の肉眼視力では、空間解像度の制限によって、表面が連続しているように見える。たとえば鶏卵の表面を、走査電子顕微鏡で見れば、穴ぼこだらけである。人肌も汗腺が開いている隙間がある。
作り方はどうであれ、塗り絵的に、あるいはポロックのように絵具を滴り落として層を重ねたりしても、結局は、表面で反射される様々な波長の光を感知しているのである。透明度の高い絵具は、その度合いに応じて、下層の絵具の色を覆い隠さず見えさせる。透明性の採用は、水甕座の時代にふさわしい(理由は後述。一つ言えば、光の科学技術の時代だと予想するからである)。
定義1は、絵画の存在形式によっている。白く塗っただけの平面的カンヴァスでも、ましてや尻尾に絵具をつけて驢馬に振り回させてできた絵画ならば堂々と絵画だと言える。
美的かどうかという内容は、形式とは別のことである。一見したところ、全面がノッペリと白い物体でも、よくよく視れば、または観れば、微妙な陰翳があって、感興を起こすかもしれない。それを美的作品だと認定するならば、それは、或る観覧条件での、特に照明条件と背景条件のもとでの、絵具の配置模様 placed pattern についての判断である。
では、美的内容にもとづく定義は、どのようなものになるか? 人々の感性は様々であるので、感性の分類をして、共通性をさがすことになる。
まずは、自然美を検討してみよう。
いのち絵画、または、有機的抽象絵画の技法
絵画の定義
定義1a
絵画とは、何らかの物体の表面に、なんらかの結合手段によって、なんらかの絵具を配置した物体である。
地球表面においては、地球重力がいたるところで働いている。床に賽子を一つ置けば、そして絵具で賽子の目が表されていれば、それは三次元的絵画である。なお、時間とは記述や測定のためのわれわれな工夫であり、実在するものではない。
たとえば蝶の翅とか孔雀の羽根の色は、構造色である。絵画は視覚に関わるものだとすると、定義1aは絵具、つまりなんらかの顔料を pigmentを使うという限定のある狭い定義である。色が見えれば、顔料によるか、表面構造のよるかを問わなければ、あるいはむしろ、膠彩画のように表面構造が見えに影響しているのは明らかなのだから、絵画とは表面体の一形式である、と定義範囲を拡張することにする。
定義1b
絵画とは、なんらかの物体の表面を、見えの上でなんらかの手段によって彩色した物体である。
彩色とは、白黒の明暗だけの場合を含むこととする。彩度がゼロの場合を含むということである。
ふ
表面は、真っ平らかもしれないし、曲がっているかもしれない。球体は、球面という一つの表面となっている。直方体は、
六面体であり、六つの隣接する絵画世界を提示できる。ヘリウムを入れて空中に浮かべることもできよう。
表面に穴が空いていて、真後ろとか曲がってどこかに穴が通じていてもよい。表面構造が入り組んでいるだけである。
彫刻作品とは掘ったり刻んだりという作用が行なわれた作品である。塑像作品は、逆に材料を付加して作っていく。
いかなる立体も、その表面によって、われわれは認識する。触覚はことにそうである。(存在するとしてだが)エーテル視力または四次元的視力を使うことができる者は、レントゲン像のように表面を貫いた像を得ることができるらしい。
通常の肉眼視力では、空間解像度の制限によって、表面が連続しているように見える。たとえば鶏卵の表面を、走査電子顕微鏡で見れば、穴ぼこだらけである。人肌も汗腺が開いている隙間がある。
作り方はどうであれ、塗り絵的に、あるいはポロックのように絵具を滴り落として層を重ねたりしても、結局は、表面で反射される様々な波長の光を感知しているのである。透明度の高い絵具は、その度合いに応じて、下層の絵具の色を覆い隠さず見えさせる。透明性の採用は、水甕座の時代にふさわしい(理由は後述。一つ言えば、光の科学技術の時代だと予想するからである)。
定義1は、絵画の存在形式によっている。白く塗っただけの平面的カンヴァスでも、ましてや尻尾に絵具をつけて驢馬に振り回させてできた絵画ならば堂々と絵画だと言える。
美的かどうかという内容は、形式とは別のことである。一見したところ、全面がノッペリと白い物体でも、よくよく視れば、または観れば、微妙な陰翳があって、感興を起こすかもしれない。それを美的作品だと認定するならば、それは、或る観覧条件での、特に照明条件と背景条件のもとでの、絵具の配置模様 placed pattern についての判断である。
では、美的内容にもとづく定義は、どのようなものになるか? 人々の感性は様々であるので、感性の分類をして、共通性をさがすことになる。
まずは、自然美を検討してみよう。