生命哲学/生物哲学/生活哲学ブログ

《生命/生物、生活》を、システム的かつ体系的に、分析し総合し統合する。射程域:哲学、美術音楽詩、政治経済社会、秘教

絵画の指示作用(約束事または解釈)と色彩作用と形態作用

2015年07月29日 11時24分34秒 | 美術/絵画原論、絵画理論、絵画技法
2015年7月29日-2
絵画の指示作用(約束事または解釈)と色彩作用と形態作用

 たとえば一個体の人物が室内にいるという状態を描いてあるとする。或る絵具の配置部分(絵具集合体)が人物だと見なすまたは同定するのは、その部分の絵具をそのように概念的に解釈しているのである。それは、すでに学習したカテゴリーへの同定である。一般的に言えば、対象と分類項目との対応関係を定めることである。これは絵具の或る集まり collection を、記号 symbol と取って、それが指すもの、たとえば或る人、を同定しているのである。これは記号の指示機能的側面または記号の代替的または代理的側面である。

 ジョージア オキーフ Georgia O'Keeffe (1887/11/15~1986/3/6)の花または花弁を拡大した絵画の場合、ただちには花だとは認定しにくい。非具象的である。半抽象絵画とも言える。
 この場合、作者がこの絵画は具象です、と言えば、具象絵画とみなされるだろう。少なくとも一人が(しかも作者本人が)そう主張していることになる。現在の時点で人々がどう受け取るかは、統計的調査を行なえばよい。その時点での間主観的判断の結果が出ることになる。
 これは花であるという認知したら、感受性になんらかの変化をもたらすだろうか?。官能的に感じるといった感性内容は、それが花を描いているということで、強化されるかもしれない。たとえば花とは、植物の生殖器官であるという理解(理性的演算結果)を経て、さらに官能的だと感じるかもしれない。その場合、(理性とは区別して捉えたときの)感性だけが反応しているのではないことになる。

 純粋抽象絵画では、なんらかの対象を指示することは無い。観者への色と形だけでの作用を問題にする。では、この作用とは何か?、またそれはどんな狙いに対しては、どのような形の支持体に、どのような色をどのように配置すればよいのか?。
 この問題を、無敵な適用力を誇るシステム的接近またはシステム主義で考えてみよう。まずは、システム的分析を適用し、そしてシステム的統合を行なう。

 しばし、システム的分析を説明しよう。
 
(続く)



読書録20150729。エルズワース ケリー Ellsworth Kelly の言

2015年07月29日 10時35分12秒 | 美術/絵画原論、絵画理論、絵画技法
2015年7月29日-1
読書録20150729。エルズワース ケリー Ellsworth Kelly の言


辻川一徳.2006/10/10.われらが時代のビックアーティスト 高松宮殿下記念世界文化賞受賞者12人へのインタビュー.389pp.フィルムアート社.[本体3,000円+税][702.8][B20150731*、1+257=258円amz]


エルズワース ケリー Ellsworth Kelly の言

 形態と地 groundの切り離し
  「私はキャンヴァスそのものを壁から離して、これがフォルム、あれが地(グラウンド)というように分けたのです。 一方デ・クーニングの作品ではフォルムと地はいっしょに同じ絵画のなかにある。私は、1950年代のはじめにパリでパネル絵画を製作したころの初期の私の絵画への貢献は、フォルムを壁から切り離して、フォルムと地(グラウンド)を分けたことだったと考えています。〔略〕こうして絵画は、より彫刻的になったのです。それは絵画の四角い枠の中におさまっているよりは、われわれの空間へ出てくるものだと私は感じました。そして私は絵画が、それ自体、部屋の中にあるすべてのものに反応するものにしたいのです。 ルネサンス以来、ほとんどの絵画はずっと窓のようなものでした。印象派やセザンヌが絵画の世界をひっかけまわしはじめ、それからピカソが出てきてコラージュを持ち込み、浮き彫りになった浮き彫りになった絵画を手がけるまではね。ホフマンやデ・クーニングやジャスパー・ジョーンズの絵の場合、見る人の視線は表面を探ります。 ホルバインや、ルネサンスのイタリアの画家たちの作品では、視線は表面を見て、それから窓のように絵画の中に入っていきます。しかし私の作品の場合、見る人と作品のあいだのスペースは、アクティヴィティ〔?。activityは、辞書では活動とか活気〕なのだと思います。見る人が探るのはもはや絵画そのものではなく、フォルムと色の関係なのです。」
(辻川一徳 2006/10: 147-148頁)。


フォルムと地(グラウンド)を分けるって?
 抽象絵画の場合では、絵画物体全体がいわば主題となるから、ケリーの言う form は、絵画物体そのものとなる。具体的世界を描写した(世界を描写したという解釈あるいは同定もまた結局は、約束事に他ならない)ものを提示するという、窓的絵画または枠付き絵画に対して、抽象絵画はそれ自体が物体としてこの世界に存在するようにしたい。これは一つの方向である。
 ところで、線だけから成る絵画は、線以外の画布部分が地と見なされるだろう。絵画内の表面に、地の部分と図の部分が分けられる(これも視覚上の約束事または規約。むろん、生物学的根拠があるが、意志によって変更できよう)。線どうしを密に隣接させると、分類が難しくなる。
 画面全体に太い線を一つ描く。こうなると、絵画表面が、一つの色面となる。(四辺の長さが異なる)ほぼ四角形のケリーの作品は、この部類である。しかし、太い線の輪郭がそのまま絵画物体の輪郭となっていると考えることができる。
 クラインの壷は、顔か壷かのどちらかの形が認知される例としてよく参照される。しかし、顔と壷の輪郭が接していると見ることが可能である。ゲシュタルト変換の例としては、不適切である。
 結局、地と図の問題である。一見ではわからないように、埋め込むことができる(隠蔽)。この問題は、個体化の問題である。つまり、或る絵画物体を主体としたときに、その環境との関係を、とりわけ見え(つまりは現われ)の上でどうするかである。


アクティヴィティってなんじゃらほい?
 activityで何のことを言っているのか分からないが、観者が探るのは、形と色の関係だという。形と色の関係というのも、よく分からない。絵画物体の形と色、つまり絵画表面(内部)での形と色の配置関係のことまたは、空気をはさんで離れたいくつかの絵画物体の色と形の関係らしい(この場合、絵画内部の諸個体(たとえば個体化された色面)間関係と絵画個体間関係の、2階層になる)。
 観者と作品の間の空間(様々な種類と数の空気分子が(或る密度で)配置され存在している空間。空間そのものは実在しない。空間とは、測定や理解のための枠組み概念であり、つまりわれわれの心的構築体である])は活動である(という感じである)、とはいったいどういう意味なのだろうか。
 或る物体について、なんらかの色と形が観測されるのは確かである。透明無色かもしれないし、コロイド状態のように、刻々と輪郭が変化したり、あるいは不明瞭であったりするかもしれないが、色と形は液体または固体の多くの場合は、観測可能である(人の視覚解像度未満の微細粒子では見えない)。

 どうであれ、絵画を観る者 viewer は、次の三つのいずれかまたは複合した立場になるだろう。

  (a)【具象絵画 第一類(窓枠内絵画)】。
   絵画体の表面を視て、そこに描かれたまたは表現された対象からなる世界に、(視覚系を経由した刺激内容に応じた心像を形成して)入っていく。表面体に配置された絵具は、具体的対象を対象となる実物の代わりとなる。
   絵画を感覚刺激としてまたは契機として幻影 inllusion を見ようとする、または心像 mental mage (こころの機能を使って心的像または心的世界を構築する、または想像するまたは創造する)を構築する。
   または、形や色や解像度を変えて、元の描かれた対象実物をきっかけとして別個の表現となる。
   具体的対象の描写から、対象をきっかけとしての(製作者の意図的または無意識的)別個表現寄りへの偏極までの間には、様々な質的段階または程度がある。 
 
  (b)【抽象絵画 第一類(表現的絵画)】。
   絵画体の表面を視て、表面の配置された絵具そのものの形と色を楽しむ。
  
  (c)【抽象絵画 第二類(物的存在者創造的絵画)】。
   絵画体の表面だけでなく、絵画体そのものの配置状態を、また内部配置状態を観て、空間的配置状態と絵画体の色、形、また質感を楽しむ。

 何かを描写した絵画か、そのものとして?存在する絵画か。→絵画または色彩の個体化?
  「具象美術はなんといっても描写です。ものごとを描写するものです。 ニューヨーク派の絵画でさえ私は、作家の「マーク」を描写している、絵筆のタッチで描写していると感じます。〔略〕いっぽう私の絵は近くで見れば絵筆で描いたものだとわかるでしょう。〔略〕でも私は、描写された空間よりも実際の空間に存在する作品をつくりたいのです。〔略〕
  もちろん、私の作品も描写しています。色彩をね。でも私は、自分の作品を、いま私がここに立っているように存在させたいのです。 これは黒いセーター、これはグリーンのパネルと言うようにね。私はそれをわれわれの空間に持ち込みたいのです」
(辻川一徳 2006/10: 150頁)。


絵画の形式と内容
  「私の絵〔略〕〔の〕内容はまったく色とかたちとサイズだけだ。」
(辻川一徳 2006/10: 170頁)。


個人的(パーソナル personal)と 非個人的な(インパーソナル impersonal)
  「パーソナルというのは、「それは私だ」ということだよ。「これが『私が』考えたことだ」とかね。〔略〕

 Ellsworth Kellyは、自らの絵画を、またはその制作方針または態度を、次のように特徴づけている。
  1. 非個人的である。
  2. 印 mark をつけない。
    絵筆で印をつけている例として、サイ トゥオンブリー Cy Twombly やウィレム デ クーニング Willem de Kooning の絵画。彼らは絵筆で印をつけている。明らかに絵筆の痕が見える。ケリーの絵画は、知くでないと絵筆の痕は見えない。
  3. 内容は、色とかたちとサイズだけである。
  4. サイズは、人体よりも大きいことで、絵画の方が観るものに対して優勢に作用する。
  5. 形態 form と 地 ground(背景?)は切り離されている。
    「モナリザは「フォルム」で、彼女の背後にある山々は「グラウンド」だ。ルネサンス以来の絵画の伝統は「フォルム」と「グラウンド」だ。「「グラウンド」の上に作家の考え、つまり「フォルム」が来る。」(辻川一徳 2006/10: 171頁)。
    「私〔=ケリー〕がパリで絵を描きはじめたとき、絵全体が「フォルム」になり、壁が「グラウンド」になった。私は「フォルム」として切り出した絵を制作した。それが壁の上にある。壁の上のかたちだ。」(辻川一徳 2006/10: 171頁)。
  たとえば肖像画では、人物が主題で背景が室内風景という構図である(ことが多い)。背景と人物は同一の面にある。では、人物を厚塗りすると、地から浮き立つ(浮き彫り的になる)。薄い板に人物を描いて切り抜き、それを垂直の設置した画布の前にたとえば1cmのところに置くともっと際立つ。
  ケリーの場合は、壁から1 inch(=2.54cm)ばかり離して展示する。「壁の上の形態 formだ」と言う。また「絵画と彫刻の中間といえるだろう」(171頁)と言う。

 絵画物体(固体状態、液体状態、気体状態、[さらに加えれば、エーテル状態(dark matterとdark energy)。たとえば可視光というエネルギー形態はエーテル質料なのだろうか?、紫外光は?、赤外光は?])と、それが設置される背景または立体的環境、これらもまた固体、液体、または気体の状態(またはそれらの複合的または中間的状態)に分類すると、3x3の組み合わせがある。
 (まだ発売するには至っていないようだが)透明な紙(固体状態)に、たとえば赤に彩色した気体を入れて、ヘリウム気体も入れて、室内または屋外で浮遊させる。この場合は、絵画物体の背景または環境は、風船とした透明紙なのか、その周りの透明な空気なのか、不透明な壁なのか。結局、背景または環境は、階層的に存在する。階層の数を測定することになる。
 絵画物体の製作と設置または展示環境の設計は、階層的に考えるべきである。もちろん、主要な絵画的作用の種類と程度を考慮することが大事である。



参考電網処

 エルズワース・ケリー
http://art.pro.tok2.com/Twenty/Kelly/kelly.htm