生命哲学/生物哲学/生活哲学ブログ

《生命/生物、生活》を、システム的かつ体系的に、分析し総合し統合する。射程域:哲学、美術音楽詩、政治経済社会、秘教

金儲け主義の行く末

2015年07月31日 21時28分34秒 | 政治経済社会学
2015年7月31日-3
金儲け主義の行く末


 ビル・ゲイツ氏は巨額の寄付をしている(らしい)。アメリカ合州国では、金儲けした人は、強迫観念的にまで寄付をしなければと思う人も多いらしい。
 一方、日本の金儲けした人々は、寄付する人はきわめて少ない。それどころか、原発事故当時の東京電力の社長のように、責任を取らない人が多い。また、未だに粉飾決算をしたりする会社も多い。

  「茂木〔健一郎〕 現在の日本には残念ながらビジョンが欠けている。政治的なビジョンも、外交的なビジョンも。〔略〕なぜビジョン〔望観または展望または未来像〕が欠けているのか? バブルの影響もあると思いますか?
波頭〔亮〕 〔略〕日本の場合はポストバブル〔バブル後〕で価値軸がかえってお金に集約してしまったのかもしれません。〔略〕1970年代に高度成長期が終わりますが、その頃までは経済軸だけで、家族の団らんまで含めて、すべて派生的に得られていました。一人当たりのGDPが一万ドルになったのが84年。一万ドルに至るまでは、食うに困らない、病院に行くのに困らない、最低限の利便に困らないことを満たすプロセス〔過程〕でした。
 ところが、〔19〕84年に一万ドルを超えて以降、わずか五年あまりで三万ドルレベルまで駆け上がってしまう。つまり、その間のプロセスがバブルというわけです。〔略〕
 その後バブルがはじけて、九〇年代に入り、ポストバブルの不況下で目を覚ますチャンスがあったのに、不況だ失業だと騒いで、国家的イシュー〔争点〕は結局また経済中心になってしまいます。」
(波頭亮・茂木健一郎 2007/9: )。

格差拡大と貧困とトリクルアップ
 歴代政権と国民の金儲け欲、または生計難からの切羽詰まった収入欲(こちらはそうした政権や官僚の責任)が、互いに支えあったということだろう。
 所得格差ではなく、貧困が問題である。しかし、社会的格差の増大が、貧困の増大へと結果したとも考えられる。
 すると問題は、トリクルダウン(滴り落ち。下層への、おこぼれ)という幻想を撒き散らして、結果はトリクルアップ(吸い上げ。金持ちが貧しい者からお金を吸い上げること)になるという、おかしな金銭再分配の問題である。世界的には、近年トリクルアップとなったことが、事実として出ている。


  「保守派は、富裕層の税率を引き下げ、貧困層への援助を削減し、上げ潮にすることで、すべての舟を浮上させることが最善の政策であると主張し、トリクルダウン経済理論(※)を提唱してきた。
 しかし現在、新しい見解を裏付ける事実が次第に明らかになりつつある。つまり、こうした議論の前提はすべて誤りだという事実、そして、実際には平等と格差の間でのトレードオフはないという事実だ。
 それはなぜなのか?――市場経済が機能するうえで、ある程度の格差が必要なのは事実だ。しかし米国の格差は極端になりすぎたため、多大な経済的ダメージを与えるようになっている。その結果、富の再分配、つまり富裕層への税の負担と貧困層への救済は、経済成長率を低下させず、逆に上昇させる可能性があることを意味している。
(※)トリクルダウン経済理論:「トリクルダウン(trickle down)=したたり落ちる」の意。大企業や富裕層の支援政策を行うことが経済活動を活性化させることになり、富が低所得層に向かって徐々に流れ落ち、ひいては国民全体の利益となる」とする仮説。主に新自由主義政策などの中で主張される。
〔略〕〔略〕
 上記、安倍政権が推進する「トリクルダウン政策」の一部をご紹介しましたが、すでに時代(世界的な時代の趨勢という意味)はトリクルダウン「仮説」が崩壊し、トリクルアップ政策が推進されなければならない局面なのです。」
 三橋貴明
 さようなら、トリクルダウン。ようこそ、トリクルアップ
 2014-09-02 08:42:36  テーマ:アメリカ経済
http://ameblo.jp/takaakimitsuhashi/entry-11918764998.html[受信:2015年7月31日。]

 「「さようなら、トリクルダウン。ようこそ、トリクルアップ」は、実は現代ビジネスに掲載されたポール・クルーグマン教授のコラム〔ポール・クルーグマン---社会の足を引っ張る格差〕の結びの言葉だったりします。」
と、三橋貴明氏は述べている。
 本来は、トリクルダウン理論または仮説は、嘘であつて、結果は格差拡大となったトリクルアップ(吸い上げ)だったのだが、クルーグマン教授とそれを受けた三橋貴明氏の「トリクルアップ」の使い方は、貧困層の中間層への移転といった内容の「トリクルアップ」で、まったく異なる意味であるようだ。注意が必要である。クルーグマン氏は、経済成長を目標としているのではないか? そうならば、それがそもそも間違いである。また、GNPといった指標ではなく、国民全体の安心して安定した人心となるような生活指標を考えるべきである。
 さて、金儲けに取り憑かれた支配層の人々が、国民福利の無視または軽視といったその不正義に気づくのは、
  株価暴落→株式市場崩壊
が現実となることしかないのかもしれない。
  株価暴落→政府財政破綻
もあり得る。
 というのは、年金積立金管理運用独立行政法人(GPIF)は、国債から株式への運用割合変更を行なったからである。

 北海道新聞 2015年7月11日 2面に、
  「年金運用 黒字15兆円 14年度株高で過去最高

 厚生年金と国民年金の積立金を運用する年金積立金管理運用独立行政法人(GPIF)は10日、2014年度の運用結果が15兆2922億円の黒字だったと発表した。運用利回りは12.27%で、いずれも過去最高。3月末時点の積立金総額は143兆9509億円となった。株高と円安で運用環境が良好だったことに加え、昨年10月に資産構成の割合を変更して株式比率を拡大したことを反映した。」
とある。

 安倍政権の意向による運用割合の2014年10月からの変更は、同記事によると、
  国内株式 12%→25%
  外国株式 12%→25%
  国内債券 60%→35%
  計    84% 85%
である。

  「GPIFは08年度、国債中心の運用だったにもかかわらず、リーマンショックの影響で約9兆6000億円の赤字を出した。〔略〕
 一部の専門家や野党の間では「大きな損失が出れば、将来世代の年金額が減りかねない」「GPIFにリスク運用を管理する体制はない」などの声が上がっている。」
(北海道新聞 2015年7月11日 2面)

 現在の株高は官製相場である。外国勢の日本株式の持ち株分は7割だとすると、その一部が売り崩しを仕掛けるには十分である。安倍政権は株高が唯一の希望といってよいのだから、GPIFから運用を任されている機関は、株価が値下がりしたら売り抜けするどころか、買い支えざるを得ないだろう。
 すると、大きな損失となる。政府財政にも影響が出るだろう。


引用文献
 波頭亮・茂木健一郎.2007/9/30.日本人の精神と資本主義の倫理.189pp.幻冬社[新書].[本体720円+税][B20141124、33.3円][Rh20150723]


マリオ ブーンゲのシステム主義(2)

2015年07月31日 14時53分08秒 | 生気論
2015年7月31日-2
マリオ ブーンゲのシステム主義(2)


  「  「最初の五つの教義は、論理的に正しくない。全体論と個体主義は、全体と部分の概念がお互いを定義しているゆえに、すなわち片方は他方無しには存在できないゆえに、間違っている。環境主義は、あらゆる具体物は活動的があるがゆえに、すなわち或るものは確かにその環境によって影響されるけれども、環境だけによって全的に生成されるわけではないゆえに、偽りである。構造主義は、定義によって、節点(個体)無しに網状組織は無いから、偽りである。最後に、過程主義もまた、誤りである。なぜなら、あらゆる過程(たとえば成長)は、なんらかの具体物の一連の諸状態であって、つまり物無しの諸過程でも不変の諸物でもないからである。
 結論すると、上に列挙した六つのすべての構造的存在論のうちで、システム主義だけが残る。(なお、三つの可能な実体存在論 substance ontologies がある。すなわち、唯物論 materialism、唯心論 spiritualism〔唯霊論〕、二元論 dualism である。)このシステム主義という存在論は、ポール-アンリ ティリ〔、〕ドルバック男爵 Paul-Henri Thirty, Baron d'Holback によって啓蒙運動の中期にはじめて提唱されたが、あらゆる真に(物質的に)

(Bunge 2013: 14-15)。



引用文献
  Bunge, Mario. 2013[/5/30]. Medical Philosophy: Conceptual Issues in Medicine. Paperback. World Scientific Publishing. [B20150717?, 6016円+0=6016円amz]

生命システム:仏典での見解 続篇

2015年07月31日 14時46分23秒 | 生気論
2015年7月31日-1
生命システム:仏典での見解 続篇


 中村元 2005/9『〈生命〉の倫理』を引き合いにした、生命またはシステムについての続篇である。(→秘教的仏教 Esoteric Buddism の主張を調べよ。)

 生物科学は、「細胞の内部に遺伝子やDNAのはたらきまでも明らかに」した。
  「しかしそれは生命のはたらきの見られる物質の構造がますます詳しくなるというだけであって、次の二つの問題に対しては答えが与えられていない。
 (1)生命とは何であるか? つまり生命現象の見られる物質を構成している諸元素とは異なった原理としての生命とは何であるか? 諸元素の結合のありかたの一種にほかならないのか? あるいは諸元素とは異なった独立の存在なのであるか?
 この二種の見解はすでに古代哲学において対立していたが、最近代の科学をもってしてもまだ解決が与えられていない。
 (2)第二に、生命は何のためにあるのであるか? これに対して科学は答えてくれない。これは、恐らく自然科学の領域外の問題であって、あるいはこういう目的論的な設問自体が無意味なのであろう。」
(中村元 2005/9: 94-95頁)。

  「それ〔生命? あるいは目的による説明か?〕を説明するためには、
  (小前提)生命はAである。
  (大前提)Aは……のためである。
  (結論)生命は……のためである。
という推論形式をとらざるを得ない。ところが、生命を問題とする限りにおいては、生命よりもより広範囲な外延をもっているAという概念が存在しないからである。
  「生命ははたらきである」
と言えるかもしれないが、「はたらき」という概念が〈生命〉を含意しているので、この命題は tautology(同語反復)にほかならないことになる。生命に関して物理的、数学的、あるいは論理学的な概念をもって述語することは理論学的には可能であるかもしれないが、生命を生命たらしめる本質的なものはその概念規定の立場から逸脱してしまうからである。」
(中村元 2005/9: 95頁)。

 〈「はたらき」という概念が〈生命〉を含意している」〉とは言えない。生命体ではないと思われるロボットは、はたらかない(働かない)のであろうか?
 〈生命を問題とする限りにおいては、生命よりもより広範囲な外延をもっているAという概念が存在しないからである。〉と、〈生命を問題とする限り〉という枠または枠組みに限定している。生命体の振る舞いや諸性質を、(既知とした)非生命体の振る舞いや諸性質から説明するのであるから、説明は当然ながら生命という枠の外からのものとなる。

 なんであれ、説明とは、
  1. 或る存在者を(或る人がその意識の上での)対象とする。
  2. その対象を下位システムまたは上位システムによって、エネルギーの種類と程度(=数量)によって、新たな統一的システムとして成立させるような機構を提示する(機構的説明 mechani_s_mic explanation[機械的 mechanisticではなく、機構的mechanismic]
ことである。なお、Mario Bunge (2013: 244) は、Philosophical Glossary 部で
  「Explanation 説明
   Description of a mechanism 機構の記述」
としている。説明として、機構的説明だけを認めているようである。
 →Bunge哲学辞典(Bunge 1999: 93-94)の【説明】という項目を見よ。


 「 そこで言えることは、「われわれが生きている」すなわち「われわれは生命を与えられている」というのは、われわれにとって原初的な事実である。それに対してわれわれは異なった道をとることはできない。」
(中村元 2005/9: 95頁)。

 「そこで」とは何をどう受けてのことかわからない。先に引用した部分とともに、根拠立てと論理展開がよくわからない文章である。
 さて、「われわれが生きている」は原初的な事実であろう。しかし、そのことは、「われわれは生命を与えられている」こととは異なる。わたしが生命体である、つまり現在生きているシステムである、ということは、誰かに生命(という種類のエネルギー? またはいくつかの種類の組み合わせのエネルギー?)を与えられているということを内含しない(含意 implication と 内含 entailmentを区別しよう)。
 概念〈働き〉が概念〈生命〉を含意するという主張は、認めることはできない。概念〈生命〉が概念〈働き〉を含意するまたは内含することは、認められる。両者は同値または同義反復ではない。

 それもさておき、
  a. わたしは生きている。これは事実である。
  b. この原初的事実を見つめて、何よりも尊いものとして大切に生きていく。
という論理?展開は、説得的である。
 それはなぜだろうか? それは、(知的 intelligent)理解ではなく、感性的説得性または直感的 sixth sense's ないし直観的 intuitive 説得性ではなかろうか? つまり、自分は生きているという自覚または意識したとき、人によっては生かされているということに有り難い、感謝の念を覚えるかもしれない。人は他養生物体であり、エネルギーと物体の取り込みを他者に依存している。ありがたいことである【→相互依存性】。

 〈或るシステムが生きている〉ことは、生きているという状態を維持する機構によって、説明される。もし、或る諸システムから創発した、つまり、生命を持たないシステムが組み合わされて、既にある機構とエネルギー(の種類と数量の)配分と転換によって、新しい性質が出現するとしたら、その機構を持つシステムが作動し続けることである。


引用文献
  Bunge, Mario. 1999. Dictionary of Philosophy. 316pp Protheus Books. [B19991213, $41.97+48.65/7]

  Bunge, Mario. 2013[/5/30]. Medical Philosophy: Conceptual Issues in Medicine. Paperback. World Scientific Publishing. [B20150717?, 6016円+0=6016円amz]

  Mahner, M. & Bunge, M.[マーナ,マルティーン・ブーンゲ,マリオ]1997, 2000(小野山敬一 訳 2008/7/26).生物哲学の基礎.xxi+556pp.シュプリンガー・ジャパン.[本体13,000円+税][ISBN9784431100256][R20080720][既知の半分ほどの訂正が行なわれた本(第2刷)が、版権が移行された丸善出版から、2012/9/30にシュプリンガー・ジャパン株式会社の編集として、発行された。 ISBN9784621063552。本体13,000円+税。]

  中村元〔/東方研究会(編)〕.2005/9/20.〈生命〉の倫理.234pp.春秋社.[本体2,500円+税][b181.6]