今、出発の刻(たびだちのとき)

車中泊によるきままな旅
<名所旧跡を訪ねる>

御許山 佛通寺(広島県三原市高坂町許山)

2013年07月20日 | 神社・仏閣
知人の悪口を書くとやはり神仏からの罰があるもので、昨日は朝から体調が悪く、今日の昼頃まで布団の中で苦しんでいた。

佛通寺には関しては予備知識も全くなく、道路地図に赤文字で記載されていたため訪れることになった。
駐車場も第1・第2駐車場と大型バスが何台も駐められるスペースがあったが当日は私の車しかいなかった。
到着したのは午後4時を過ぎていたので駐車場から急ぎ境内を目指した。

境内にも参拝客どころか人の気配すら全くなく、これはこれでどのように過ごすかが難しい。
左の観音堂から順にここにきたという記録写真を撮る。




佛通寺の歴史
臨済宗佛通寺派大本山佛通寺は仏通寺川沿いの「佳き山水の地」を選んで建立された。
そもそも佛通寺は,應永4年(1397)小早川春平公が愚中周及(佛徳大通禅師)を迎え創建した臨済宗の禅刹である。
佛通寺の名称は,愚中周及の師である即休契了を勧請開山とし,彼の諡号(佛通禅師)を寺名にしたことを起因とする。
小早川家一族の帰依を受けて瞬く間に寺勢は隆昌し,最盛期には山内の塔中88ヵ寺,西日本に末寺約3千ヵ寺を数えるに到った。
しかし,応仁の乱の後に荒廃にむかい,小早川隆景の治世になってやや再興したものの,福島家そして続いて浅野家と権力者が変わるにつれて,しだいに当時の面影を失ったのである。
しかし,明治期に入ると一転して法灯は大いに挽回され明治38年, 初代管長の寛量思休禅師のもと臨済宗佛通寺派として天龍寺から独立復旧し,参禅道場をもつ西日本唯一の大本山として今日に到っている。


巨蟒橋(きょもうきょう)
現在の地図には佛通寺川と記されているこの渓流は、往古より「活龍水」と呼ばれ、佛通寺本寺の結界である。
橋を渡る者は一切の俗塵を捨て去ることが必要とされ、不心得者が渡ろうとすると、どこからともなく蟒蛇が現れて威嚇したという。







山門
佛通寺の正門。寛政の回禄(1796)の後、広島藩主浅野家の外護で文化年間に再興されたもの。






観音堂
 





仏殿
佛通寺の中心の伽藍。須彌壇上には釈迦三尊像を祀る。公式的な説法問答の場である法堂を兼ねる。
寛政の回禄(1796)の後、広島藩主浅野家の外護で文化5年(1808)に再建。
天井の雲龍図は文化7年備中松山の画工、菅南山筆。龍は仏法の守護神であり、また雲を呼び雨を降らせるところから火難除けの意もある。



 






写真を撮っていると航空機の音がして私がカメラを向けている仏殿の屋根に向かっていた。
普段なら遣り過ごすところだが2度シャッターを押したうちの1枚がこれである。記念すべき航空写真、自分では結構気に入っている。




大方丈
佛通寺の本堂。儀式法要、法話説法の場。
方丈とは、もともと一丈四方(3m×3m)の居室の意で、住持の居間であったものが後に大伽藍として建てられるようになった。
この建物は「降魔殿」と呼ばれ、第三代管長山崎益洲老師筆の「降魔」の扁額が掛かっている。
初めは毘沙門像が祀られていたが、現在は十一面観世音菩薩像が本尊である。







 
大玄関






鐘楼
足下の砂がきれいに掃き清められている。
通行禁止の立て札もないが、この時間になってこの状態が保たれている日本に誇りを感じる。










経堂






多宝塔(登録有形文化財)






開山堂、地蔵堂



多宝塔周辺の石仏









自然と一体化している石仏。
私が一番魅力を感じている石仏だが、足下が悪く近づくことができないため、同じ角度でしか写すことができないのが残念だった。













三安観音
「家・安かれ、身・安かれ、子・安かれ」と過去、現在、未来の三世の安穏を祈願するため、尾道出身の篤志家山口玄洞氏夫妻から奉納された。





 

紅葉時のみ拝観料があるようで、紅葉の季節には駐車場に車が入れないほど混雑する寺のようだ。
写真の緑が紅色に変化する風景も見たいものである。
このお寺にははじめてきだが開山堂や多宝塔に行く階段から見える景色と石仏たちの表情が素晴らしい。
望遠レンズがあればまた違った表情の写真になったかもしれないので悔いが残る。


撮影 平成25年5月22日

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