訪問日 令和5年10月16日
瑠璃光山 医王寺
東北地方を巡る旅のなかで、芭蕉ゆかりの地を訪れてみたいと考えていた
滞在していた場所の近くにその寺があった
「おくのほそ道」で芭蕉が感涙をおさえきれなかったという寺である
寺号標
「醫王密寺」と刻まれている
薬師如来の別称「医王」を寺号としている
平安時代の天長3年(826年)「空海」による開山とされている
貴船神社
奥州藤原氏の一門であり飯坂をおさめていた「佐藤一族」の菩提寺である
宝篋印塔
初めて訪れる寺で案内標示に従って歩く
始めに「本堂・芭蕉句碑」
正面に本堂
慈母観世音菩薩
親子地蔵
南無大師遍照金剛(弘法大師 空海)
本堂入口
入り口前の階段には「眠り猫」が
扁額には山号の「瑠璃光山」
堂内に入ると「佐藤一族位牌殿」と書かれた文字が目に入ってくる
義経に関する小説は読んだことがあるが、このときは佐藤一族についての理解はできていなかった
佐藤一族位牌殿
芭蕉が感涙したという物語がここから始まる
佐藤継信の妻「若桜」
奥州藤原氏の一門であり信夫(しのぶ:現在の福島)の地をおさめていた佐藤基治公の息子継信、忠信兄弟は源義経に付き従った
継信、忠信兄弟は義経の身代わりとなり壮絶な最後を遂げた(後述)
佐藤忠信の妻「楓」
二人の息子を失い悲しみにくれる老母「乙和」の姿を見ていた継信の妻「若桜」と忠信の妻「楓」は、
乙和の悲しみを慰めようと夫の武者姿に扮したという悲しくも美しい物語である
この美しい人形はこの物語をより感動的にさせる
本尊:大日如来
本堂の天井画
私はこちらの歴史を感じる方に魅力を感じている
襖絵
駕籠
欄間の彫刻
芭蕉句碑
芭蕉が医王寺を訪れたのは、元禄2年(1689年 )5月「おくのほそ道」の途中である
佐藤兄弟を偲び「笈も太刀もさつきに飾れ紙のぼり」と詠んでいる
謡曲「摂待」と医王寺
源義経一行主従十二人は、山伏姿に身をやつして奥州へ下るというので、佐藤継信の母は山伏摂待の高札を立てて、毎日主君義経の通過を待っている。
義経は弁慶以下十一人の家臣をつれて、この高札の所へ忍び着いたのである。
佐藤の館で山伏摂待をするというので、素通りはかえって怪しまれるからと、知らぬ体にて一同は佐藤の館に立ち寄る。
すると佐藤継信、忠信の母と名乗って老女が出てきて、まことの主君よと喜び迎え、古い記憶をたどりつつ武蔵坊弁慶をはじめ、
増尾の十郎兼房、鷲尾の十郎など、一々名を指し示して懐かしみ、継信の忘れ形見の一子鶴若も、けなげにも十二人の山伏の中から、
主君義経を選び出して取りすがるので、義経も包み隠すことが出来ず、遂に打ち明け主従は涙ながらに対面をする。
義経は老母の心を思いやり、弁慶に継信、忠信兄弟の者が屋島で功名を立てた最後の有様を詳しく語らせたりして、
一同はくつろいで夜もすがら酒宴を催し、鶴若も亡き父にあったような気持でお酌をする。
やがて夜も明け方になったので、義経主従十二人は、自分もお供するという鶴若を、あれこれとなだめすかして、老母に見送られながら、涙とともに出発するのである。
参道に出る
中央に源義経、右に佐藤継信、左に佐藤忠信の像が建てられている
<物語は続く>
平安末期、信夫の荘司佐藤基治は大鳥城を居城として陸奥南部の広域を治めていた
後年、基治は源平合戦に臨むため平泉の鎮守府将軍藤原秀衡のもとから旗揚げする源義経の従臣として
その子、継信と忠信の兄弟を遣わせて義経に対する徹底した護衛を命じた
佐藤継信
その命令通り、兄 継信は四国の屋島の戦で義経を射んと放たれた能登守教経の矢を身体で受け止め主君の一命を守った
佐藤忠信
後に源頼朝との和を失った義経が追手に遭い危機に陥った時、京都で弟 忠信は義経を名乗って応戦し、一行を無事遠ざけ自分は犠牲となった
更に故郷に残された兄弟の妻たちが、気丈にも悲しみを抑えて兄弟武将を装って姑の乙和を慰めた孝心等、数々の故事は後世に感動を与えてきた
源義経
源義経一行が山伏姿に身をやつして奥州へ下る際、佐藤の館に立ち寄る
義経は老母の心を思いやり、弁慶に継信、忠信兄弟が屋島で功名を立てた最後の有様を詳しく語らせた
義経が佐藤基治に形見に与えられたと伝えられるものに、着物の端切れや恨みの矢の根、笈などがある
このような歌になっているのも地域に愛されているからこそ
案内通り参道を進んで行く
その先に薬師堂が見える
行啓祈念碑
鯖野薬師堂(さばのやくしどう)
平安時代末に玄心僧都が勧請し、この里にお堂を建てた
扁額には「薬師堂」
堂内の様子
本尊は、弘法大師御作の「薬師如来」
小石に穴を開けお堂に吊り下げているというのを、初めて見た
調べてみると、多くは耳病平癒とされ、地蔵尊や薬師如来を祀る堂宇でよく見かけるそうだ
佐藤氏奉先碑
乙和の椿
佐藤継信・忠信兄弟を失った母乙和の深い悲しみと母情が宿ったと言われ、蕾のまま落ちてしまう椿
いつしか人々は「乙和の椿(おとわのつばき)」と呼ぶようになった
この木が「乙和の椿」
佐藤基治・乙和墓碑(福島県指定文化財)
継信・忠信墓碑(福島県指定文化財)
墓はすべて板碑で作られており、かつてこのお墓の石を削って飲むと病が治ると信じられており削られた跡が見られる
芭蕉の「おくのほそ道」にこのような記述がある
<前略>また、近くに佐藤氏の菩提寺があり、境内に佐藤一家の石碑が残っている。
なかでも、継信・忠信兄弟の妻二人の墓碑は、深い哀情を誘わずにはおかない。
女の身でありながら、けなげな評判を後世に伝えたものだ、と感涙にむせんだ。<後略>
参道を引き返す
参道横に咲いていた花
瑠璃光殿(宝物殿)
源義経が佐藤基治に形見に与えられたと伝えられる着物の端切れや、佐藤継信・忠信兄弟にまつわる物、また木地鞍(きじくら)・恨みの矢の根・鍍金装笈(おい)など多数展示されている
なかでも笈は、義経と共に逃れてきた弁慶が、奉納したという
「笈も太刀もさつきに飾れ紙のぼり」(芭蕉)
鐘楼
撮影 令和5年10月16日
瑠璃光山 医王寺
東北地方を巡る旅のなかで、芭蕉ゆかりの地を訪れてみたいと考えていた
滞在していた場所の近くにその寺があった
「おくのほそ道」で芭蕉が感涙をおさえきれなかったという寺である
寺号標
「醫王密寺」と刻まれている
薬師如来の別称「医王」を寺号としている
平安時代の天長3年(826年)「空海」による開山とされている
貴船神社
奥州藤原氏の一門であり飯坂をおさめていた「佐藤一族」の菩提寺である
宝篋印塔
初めて訪れる寺で案内標示に従って歩く
始めに「本堂・芭蕉句碑」
正面に本堂
慈母観世音菩薩
親子地蔵
南無大師遍照金剛(弘法大師 空海)
本堂入口
入り口前の階段には「眠り猫」が
扁額には山号の「瑠璃光山」
堂内に入ると「佐藤一族位牌殿」と書かれた文字が目に入ってくる
義経に関する小説は読んだことがあるが、このときは佐藤一族についての理解はできていなかった
佐藤一族位牌殿
芭蕉が感涙したという物語がここから始まる
佐藤継信の妻「若桜」
奥州藤原氏の一門であり信夫(しのぶ:現在の福島)の地をおさめていた佐藤基治公の息子継信、忠信兄弟は源義経に付き従った
継信、忠信兄弟は義経の身代わりとなり壮絶な最後を遂げた(後述)
佐藤忠信の妻「楓」
二人の息子を失い悲しみにくれる老母「乙和」の姿を見ていた継信の妻「若桜」と忠信の妻「楓」は、
乙和の悲しみを慰めようと夫の武者姿に扮したという悲しくも美しい物語である
この美しい人形はこの物語をより感動的にさせる
本尊:大日如来
本堂の天井画
私はこちらの歴史を感じる方に魅力を感じている
襖絵
駕籠
欄間の彫刻
芭蕉句碑
芭蕉が医王寺を訪れたのは、元禄2年(1689年 )5月「おくのほそ道」の途中である
佐藤兄弟を偲び「笈も太刀もさつきに飾れ紙のぼり」と詠んでいる
謡曲「摂待」と医王寺
源義経一行主従十二人は、山伏姿に身をやつして奥州へ下るというので、佐藤継信の母は山伏摂待の高札を立てて、毎日主君義経の通過を待っている。
義経は弁慶以下十一人の家臣をつれて、この高札の所へ忍び着いたのである。
佐藤の館で山伏摂待をするというので、素通りはかえって怪しまれるからと、知らぬ体にて一同は佐藤の館に立ち寄る。
すると佐藤継信、忠信の母と名乗って老女が出てきて、まことの主君よと喜び迎え、古い記憶をたどりつつ武蔵坊弁慶をはじめ、
増尾の十郎兼房、鷲尾の十郎など、一々名を指し示して懐かしみ、継信の忘れ形見の一子鶴若も、けなげにも十二人の山伏の中から、
主君義経を選び出して取りすがるので、義経も包み隠すことが出来ず、遂に打ち明け主従は涙ながらに対面をする。
義経は老母の心を思いやり、弁慶に継信、忠信兄弟の者が屋島で功名を立てた最後の有様を詳しく語らせたりして、
一同はくつろいで夜もすがら酒宴を催し、鶴若も亡き父にあったような気持でお酌をする。
やがて夜も明け方になったので、義経主従十二人は、自分もお供するという鶴若を、あれこれとなだめすかして、老母に見送られながら、涙とともに出発するのである。
参道に出る
中央に源義経、右に佐藤継信、左に佐藤忠信の像が建てられている
<物語は続く>
平安末期、信夫の荘司佐藤基治は大鳥城を居城として陸奥南部の広域を治めていた
後年、基治は源平合戦に臨むため平泉の鎮守府将軍藤原秀衡のもとから旗揚げする源義経の従臣として
その子、継信と忠信の兄弟を遣わせて義経に対する徹底した護衛を命じた
佐藤継信
その命令通り、兄 継信は四国の屋島の戦で義経を射んと放たれた能登守教経の矢を身体で受け止め主君の一命を守った
佐藤忠信
後に源頼朝との和を失った義経が追手に遭い危機に陥った時、京都で弟 忠信は義経を名乗って応戦し、一行を無事遠ざけ自分は犠牲となった
更に故郷に残された兄弟の妻たちが、気丈にも悲しみを抑えて兄弟武将を装って姑の乙和を慰めた孝心等、数々の故事は後世に感動を与えてきた
源義経
源義経一行が山伏姿に身をやつして奥州へ下る際、佐藤の館に立ち寄る
義経は老母の心を思いやり、弁慶に継信、忠信兄弟が屋島で功名を立てた最後の有様を詳しく語らせた
義経が佐藤基治に形見に与えられたと伝えられるものに、着物の端切れや恨みの矢の根、笈などがある
このような歌になっているのも地域に愛されているからこそ
案内通り参道を進んで行く
その先に薬師堂が見える
行啓祈念碑
鯖野薬師堂(さばのやくしどう)
平安時代末に玄心僧都が勧請し、この里にお堂を建てた
扁額には「薬師堂」
堂内の様子
本尊は、弘法大師御作の「薬師如来」
小石に穴を開けお堂に吊り下げているというのを、初めて見た
調べてみると、多くは耳病平癒とされ、地蔵尊や薬師如来を祀る堂宇でよく見かけるそうだ
佐藤氏奉先碑
乙和の椿
佐藤継信・忠信兄弟を失った母乙和の深い悲しみと母情が宿ったと言われ、蕾のまま落ちてしまう椿
いつしか人々は「乙和の椿(おとわのつばき)」と呼ぶようになった
この木が「乙和の椿」
佐藤基治・乙和墓碑(福島県指定文化財)
継信・忠信墓碑(福島県指定文化財)
墓はすべて板碑で作られており、かつてこのお墓の石を削って飲むと病が治ると信じられており削られた跡が見られる
芭蕉の「おくのほそ道」にこのような記述がある
<前略>また、近くに佐藤氏の菩提寺があり、境内に佐藤一家の石碑が残っている。
なかでも、継信・忠信兄弟の妻二人の墓碑は、深い哀情を誘わずにはおかない。
女の身でありながら、けなげな評判を後世に伝えたものだ、と感涙にむせんだ。<後略>
参道を引き返す
参道横に咲いていた花
瑠璃光殿(宝物殿)
源義経が佐藤基治に形見に与えられたと伝えられる着物の端切れや、佐藤継信・忠信兄弟にまつわる物、また木地鞍(きじくら)・恨みの矢の根・鍍金装笈(おい)など多数展示されている
なかでも笈は、義経と共に逃れてきた弁慶が、奉納したという
「笈も太刀もさつきに飾れ紙のぼり」(芭蕉)
鐘楼
撮影 令和5年10月16日
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