今、出発の刻(たびだちのとき)

車中泊によるきままな旅
<名所旧跡を訪ねる>

両界山 横蔵寺(岐阜県揖斐郡揖斐川町谷汲神原1160)

2023年04月11日 | 神社・仏閣
訪問日 令和4年10月3日

両界山 横蔵寺
天台宗の寺院
国の重要文化財を含む多数の文化財を有し、「美濃の正倉院」とも呼ばれる
紅葉の名所でもあり秋の行楽シーズンには特に多くの参拝客が訪れる



境内案内図



訪れた10月上旬の1ヶ月後には紅葉の時期を迎える



寺門(揖斐川町文化財)



仁王門(岐阜県重要文化財)
延宝3年(1675年)完成



檜皮葺の楼門、三間一戸(正面の柱間が3間で中央の1間が戸口)



額の字が読めない



重要文化財の仁王像は瑠璃殿(宝物殿)の入口の左右に置かれている
門の左右には奉納された大草鞋



階段を上ると2階には梵鐘があり、鐘楼門となっている



高い場所から見ると、その梵鐘が確認できる



三重塔(岐阜県重要文化財)
檜皮葺 寛文3年(1663年)完成



美しい塔だが塔全体を撮れる場所が少ないのが難点だ



本堂横から



本堂(岐阜県重要文化財)
寛文11年(1671年)完成
本尊:薬師如来(重要文化財)



寺伝によれば、横蔵寺は日本天台宗の宗祖、最澄が自作の薬師如来を安置して創建した寺とされている
伝承によれば、最澄は比叡山延暦寺を開創する際に、本尊薬師如来像を自ら刻んだ
その薬師如来像を造ったのと同じ霊木から、もう1体の薬師如来像を造った



最澄は、その2体目の薬師如来像を笈(おい、山伏や山林修行者が背中に背負う箱状のもの)に入れて背負いながら諸国を旅した
延暦22年(803年)横蔵寺のある地まで来た時に薬師如来像が動かなくなったので、ここに一寺を建立して薬師如来像を祀ることにした
地元の三和次郎大夫藤原助基が寺を建立したという(創建年は801年あるいは805年とも)



元亀2年(1571年)織田信長の兵火で焼失し、現在ある本堂、三重塔、仁王門などの主要伽藍は江戸時代の復興である
織田信長の比叡山焼き討ちによって、延暦寺の伽藍が灰になった
横蔵寺の本尊薬師如来像は、「延暦寺本尊と同じ霊木から造られた、最澄自作の像」という由緒ある像だということで延暦寺に移された
その代わりに、洛北の御菩薩池から移されたのが、横蔵寺の現本尊である薬師如来像であるという(HPより)



現本尊である薬師如来像(重要文化財)は瑠璃殿に安置されている
秘仏で60年に一回の開帳



この寺院は今回で4回目の参拝になるが、本堂の内部を見たのは今回が初めてである



境内図(その2)



案内図にないものが眼前に現れた



鐘堂
前回訪れた時にはなかった



観音堂



瑠璃殿(宝物殿)
拝観料:舎利堂・瑠璃殿(宝物館)は両館共通で大人500円
重要文化財に指定されている22体もの仏像を拝観できるのは貴重だ
特に重要文化財の「深沙大将立像」は国内に4体(明通寺、金剛院、高野山霊宝観)しかなく貴重だ
深沙大将は『大唐西域記』で知られる玄奘三蔵が苦難の陸路天竺行のとき出現して一行を守護した多聞天の化身(沙悟浄がモデル)



舎利堂
横蔵寺は「ミイラのある寺」として知られている
舎利堂に安置される「舎利仏」すなわちミイラは、妙心法師という人物の遺体である
妙心法師は横蔵寺の地元の村の出身で、諸国を巡って仏道修行をした
文化14年(1817年)断食修行の後、今の山梨県都留市の御正体山で即身成仏した
成仏した地の山梨県都留郡鹿留村で保存されていたが、明治初年に山梨県庁に移された
明治13年(1880年)に明治天皇が天覧になられた際に、故郷へ戻すようにとのお言葉があり、明治23年(1890年)横蔵寺に移された



再び三重塔へ



駐車場には私の車だけになってしまった
この後、滋賀県の長濱蒸溜所に向かう



訪問日 令和4年10月3日

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