今、出発の刻(たびだちのとき)

車中泊によるきままな旅
<名所旧跡を訪ねる>

菅生石部神社(石川県加賀市大聖寺敷地)

2022年07月02日 | 神社・仏閣
訪問日 令和4年5月18日

菅生石部神社<通称:敷地天神・菅生天神>
用明天皇元年(585年) この地で疾病が流行したとき、宮中で祀られていた菅生石部神が勧請されたのが始まり

社号柱
加賀国二宮で、旧社格は国幣小社



鳥居



神門(加賀市指定文化財)
総欅造りの銅葺き2層の楼門
文政7年(1824年)に起工し、翌年9月に完成



額には「菅生石部神社」



随神像



阿吽一対の組み合わせで安置されている



手水舎



拝殿



『平家物語』巻第七に、志保山の戦いで平家の搦め手を破った木曾義仲が「能美の荘(現・能美市周辺)」を寄進したことが記されている



寺宝には足利氏の寄進状や、前田利常の夫人・天徳院(徳川2代将軍秀忠の娘)が寄進した『蒔絵角赤手箱』(重要文化財)などの文化財も多数ある



「菅生石部神社は全国の斎藤さんの氏神」
平安時代の前期、藤原叙用は、斎宮頭(神宮に奉仕していた未婚の皇女・斎宮の世話を職掌とする斎宮寮の長官)を任ぜられた
それを名誉と考えて、「斎宮の藤原」略して「斎藤」と名乗り、さらに菅生石部神社に祀られる天神を氏神として、一族の繁栄を願った
斎藤氏は美濃国の目代に任ぜられ、美濃に遷るが、その際、氏神の菅生石部神社の分霊を勧請(美濃国には菅生石部神社が17社)
また菅生石部神社の分散とともに、斎藤氏も全国に拡散して隆盛した



本殿
祭神:菅生石部神(天津日高日子穗穗出見命、豐玉毘賣命、鵜葺草葺不合命の三柱の総称)



中世には北野天満宮の社領で「天神」の通称はそこからきた
現在もその名残で境内に牛の像が残っている



神馬



神楽殿



能『敷地物狂』は菅生石部神社の境内(敷地)を舞台とする話
物語は加賀国江沼郡出身で、天慶9年(946年)年に天台宗第15代座主になった「延昌(えんしょう)」の話し



主人公は菅生殿の子息松若。松若は12歳の春、書き置きを残し比叡山に登り必死に勉強をして、偉いお坊さんになった
松若はお供を従えて、生まれ故郷の菅生へ帰ったがが家も家族もいなかった
地元の人びとに家族の消息を聞くと、母親も松若を探しに家を出て、家族が散りぢりになったという
松若は自分が家を出たのと同じ春、敷地の宮で行方知れずの家族をしのび、涙ながらに説法をする
すると親子の情を説く松若のもとに一人のみすぼらしい姿をした老婆がやってきた
松若の話にとても感動した老婆は、松若にお供え物として菰(こも)を差し出した
するとその菰から一通の書状がこぼれ落ちた
実はその書状こそが、松若が家を飛び出すさい、家に残した書き置きだった
その老婆は松若の母親だった
松若と母親は奇跡の再会を果たしたのだった



神門(境内側)を眺め駐車場に戻る




撮影日 令和4年5月18日

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