石舞台古墳から1キロほどの所に橘寺があることを知る。駐車場の確認もできなかったため歩いて移動することにした。
この日は猛暑日で日差しも強く実際の距離以上に長く感じた。やっと着いたと思ったら目の前に無料の駐車場が。
帰りのことを考えると疲労感が倍増した。
橘寺 正式名称:仏頭山上宮皇院菩提寺の歴史
奈良県高市郡明日香村にある天台宗の寺院。
正式には「仏頭山上宮皇院菩提寺」と称し、本尊は聖徳太子・如意輪観音。
橘寺という名は、垂仁天皇の命により不老不死の果物を取りに行った田道間守が持ち帰った橘の実を植えたことに由来する。
東門
同時期の寺院は中国の「王者南面」の思想を受け仏教寺院は南面して建てられるのが通常であったが、橘寺はこれに反して東面して建立されている。
境内
東門から真っ直ぐにのびる参道。正面が本堂になる。
本堂(太子殿)
現橘寺の本堂。この位置に創建時講堂があった。
現本堂は寺伝によると江戸時代末期元治元年(1864)建てられた。
橘寺の付近には聖徳太子が誕生したとされる場所があり、寺院は聖徳太子建立七大寺の1つとされている。
太子が父用明天皇の別宮を寺に改めたのが始まりと伝わる。
史実としては、橘寺の創建年代は不明で、『日本書紀』天武天皇9年(680年)4月条に、「橘寺尼房失火、以焚十房」(橘寺の尼房で火災があり、十房を焼いた)とあるのが文献上の初見である。
聖徳太子の愛馬。太子信仰ではこの馬は空を駆けたといわれ、達磨大師の化身と伝える。
発掘調査の結果、当初の建物は、東を正面として、中門、塔、金堂、講堂が東西に一直線に並ぶ、四天王寺式または山田寺式の伽藍配置だったことが判明している。
二面石
明日香村飛鳥時代石造物といえば亀石が有名だが、この石像もその一つで「二面石」と呼ばれている。
高さ約1mほどの石造物で、左右に善相と悪相が彫られており、人の心の二面性を表現しているという。
よく右善面、左悪面といい、人の心の善悪二相を現しているとされるが他の飛鳥石造物と同様、この石像が何故造られたのか等の本来の意味はよく解っていない。
左悪面
右善面
私など善悪の二面では足りない。多面石が必要だ。
なお亀石は、この橘寺の西門を出て少し西に行ったところにある
三光石
寺伝によれば、606年(推古14)、聖徳太子は推古天皇に請われて勝鬘経(しょうまんきょう)の講説を三日間この地で行った。
すると、蓮の花が天から溢れ落ちてきて庭に積もった。
さらに南の山に千の仏頭が現れ、太子の冠からは日月星の光が輝くなど不思議なことがおこった。
そこで、天皇がここに寺を建てるよう皇子に命じられ、皇子が尼寺を建立したのが橘寺の始まりとされている。
境内には、勝鬘経講説に関係した史跡が残っている。
「三光石」は、聖徳太子が勝鬘経の講義を行った際、冠が日・月・星の光を放ったとされていることからイメージされた石のようである。
「蓮華塚」と呼ばれている塚は、降り積もった蓮の華を埋めた場所であるという。
川原寺跡
撮影 平成22年7月25日
この日は猛暑日で日差しも強く実際の距離以上に長く感じた。やっと着いたと思ったら目の前に無料の駐車場が。
帰りのことを考えると疲労感が倍増した。
橘寺 正式名称:仏頭山上宮皇院菩提寺の歴史
奈良県高市郡明日香村にある天台宗の寺院。
正式には「仏頭山上宮皇院菩提寺」と称し、本尊は聖徳太子・如意輪観音。
橘寺という名は、垂仁天皇の命により不老不死の果物を取りに行った田道間守が持ち帰った橘の実を植えたことに由来する。
東門
同時期の寺院は中国の「王者南面」の思想を受け仏教寺院は南面して建てられるのが通常であったが、橘寺はこれに反して東面して建立されている。
境内
東門から真っ直ぐにのびる参道。正面が本堂になる。
本堂(太子殿)
現橘寺の本堂。この位置に創建時講堂があった。
現本堂は寺伝によると江戸時代末期元治元年(1864)建てられた。
橘寺の付近には聖徳太子が誕生したとされる場所があり、寺院は聖徳太子建立七大寺の1つとされている。
太子が父用明天皇の別宮を寺に改めたのが始まりと伝わる。
史実としては、橘寺の創建年代は不明で、『日本書紀』天武天皇9年(680年)4月条に、「橘寺尼房失火、以焚十房」(橘寺の尼房で火災があり、十房を焼いた)とあるのが文献上の初見である。
聖徳太子の愛馬。太子信仰ではこの馬は空を駆けたといわれ、達磨大師の化身と伝える。
発掘調査の結果、当初の建物は、東を正面として、中門、塔、金堂、講堂が東西に一直線に並ぶ、四天王寺式または山田寺式の伽藍配置だったことが判明している。
二面石
明日香村飛鳥時代石造物といえば亀石が有名だが、この石像もその一つで「二面石」と呼ばれている。
高さ約1mほどの石造物で、左右に善相と悪相が彫られており、人の心の二面性を表現しているという。
よく右善面、左悪面といい、人の心の善悪二相を現しているとされるが他の飛鳥石造物と同様、この石像が何故造られたのか等の本来の意味はよく解っていない。
左悪面
右善面
私など善悪の二面では足りない。多面石が必要だ。
なお亀石は、この橘寺の西門を出て少し西に行ったところにある
三光石
寺伝によれば、606年(推古14)、聖徳太子は推古天皇に請われて勝鬘経(しょうまんきょう)の講説を三日間この地で行った。
すると、蓮の花が天から溢れ落ちてきて庭に積もった。
さらに南の山に千の仏頭が現れ、太子の冠からは日月星の光が輝くなど不思議なことがおこった。
そこで、天皇がここに寺を建てるよう皇子に命じられ、皇子が尼寺を建立したのが橘寺の始まりとされている。
境内には、勝鬘経講説に関係した史跡が残っている。
「三光石」は、聖徳太子が勝鬘経の講義を行った際、冠が日・月・星の光を放ったとされていることからイメージされた石のようである。
「蓮華塚」と呼ばれている塚は、降り積もった蓮の華を埋めた場所であるという。
川原寺跡
撮影 平成22年7月25日
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