訪問日 令和3年6月3日
医王山 米山寺 密蔵院
道の駅に置かれていた資料を参考に訪れた
寺号標はあるが周辺に寺らしきものが見当たらない
道路脇に車を駐め、石仏を撮りながら、誰かが来たら尋ねようと思っていた
人の気配もなく、周辺を歩くと農作業をしている人がいたので声を掛けた
石段を上がったら寺があると作業の手を止め教えていただいた
石段を上がると広い場所にでたが建物はなかった
更に先に進むと、奥に建物が見えてきた
左手には石仏も見えてくる
穏やかな顔をした石仏だ
庫裡
境内にある大きな建物は2つのようだ
護摩堂
真言宗豊山派の寺院
密蔵院の創建は和銅5年(712年)泰澄大師(白山を開山した修験道の高僧)が開山したと伝えられている
江戸時代後期の御堂建築で、入母屋、銅板葺、平入、桁行4間、正面1間向拝付
米山薬師は越後富士の異名がある米山(標高:993m)に勧請安置された薬師如来
霊験が高く鳳来寺山薬師(愛知県)、法華嶽薬師(宮崎県)と共に日本三薬師に数えられた
密蔵院は米山薬師の別当寺として隆盛を極め境内には七堂伽藍の建物が建ち並んでいた
中世は上杉家に庇護されていた。慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦いの際には西軍に与した上杉家に呼応し一揆(上杉遺民一揆)に参加
密蔵院はその兵火で多くの堂宇が焼失し一時衰退する
元和2年(1616年)に宥照上人が長嶺藩の藩主牧野氏と高田藩の藩主松平氏の庇護もあり密蔵院を再興した
江戸時代後期の文化14年(1817年)現在の護摩堂を再建した
組物や彫刻などに見所がある
護摩堂外壁装飾(上越市指定文化財)
中国英雄物語を表した彫刻
高田 万吉、又吉、重五郎、江戸淺艸茂左エ門作の外壁装飾4面(1面は210cm×260cm)
堂内に入る
本尊:薬師如来
奉納額
天井画
扁額には「護摩堂」
外観は普通だが、お堂には魅力的なものが沢山詰め込まれている感じだ
帰りは階段を避け、緩い坂道を下りた
撮影 令和3年6月3日
医王山 米山寺 密蔵院
道の駅に置かれていた資料を参考に訪れた
寺号標はあるが周辺に寺らしきものが見当たらない
道路脇に車を駐め、石仏を撮りながら、誰かが来たら尋ねようと思っていた
人の気配もなく、周辺を歩くと農作業をしている人がいたので声を掛けた
石段を上がったら寺があると作業の手を止め教えていただいた
石段を上がると広い場所にでたが建物はなかった
更に先に進むと、奥に建物が見えてきた
左手には石仏も見えてくる
穏やかな顔をした石仏だ
庫裡
境内にある大きな建物は2つのようだ
護摩堂
真言宗豊山派の寺院
密蔵院の創建は和銅5年(712年)泰澄大師(白山を開山した修験道の高僧)が開山したと伝えられている
江戸時代後期の御堂建築で、入母屋、銅板葺、平入、桁行4間、正面1間向拝付
米山薬師は越後富士の異名がある米山(標高:993m)に勧請安置された薬師如来
霊験が高く鳳来寺山薬師(愛知県)、法華嶽薬師(宮崎県)と共に日本三薬師に数えられた
密蔵院は米山薬師の別当寺として隆盛を極め境内には七堂伽藍の建物が建ち並んでいた
中世は上杉家に庇護されていた。慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦いの際には西軍に与した上杉家に呼応し一揆(上杉遺民一揆)に参加
密蔵院はその兵火で多くの堂宇が焼失し一時衰退する
元和2年(1616年)に宥照上人が長嶺藩の藩主牧野氏と高田藩の藩主松平氏の庇護もあり密蔵院を再興した
江戸時代後期の文化14年(1817年)現在の護摩堂を再建した
組物や彫刻などに見所がある
護摩堂外壁装飾(上越市指定文化財)
中国英雄物語を表した彫刻
高田 万吉、又吉、重五郎、江戸淺艸茂左エ門作の外壁装飾4面(1面は210cm×260cm)
堂内に入る
本尊:薬師如来
奉納額
天井画
扁額には「護摩堂」
外観は普通だが、お堂には魅力的なものが沢山詰め込まれている感じだ
帰りは階段を避け、緩い坂道を下りた
撮影 令和3年6月3日
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