今、出発の刻(たびだちのとき)

車中泊によるきままな旅
<名所旧跡を訪ねる>

日清講和記念館(山口県下関市阿弥陀寺町4-3)

2023年07月18日 | 博物館・美術館・記念館
訪問日

日清講和記念館(国登録有形文化財)
明治維新後、日本は朝鮮半島の権益を巡って清国(中国)と対立を深め、明治27年(1894年)8月、甲午農民戦争(東学党)の乱をきっかけに開戦した
日本軍が平壌、黄海で勝利し、遼東半島を制圧した戦況を受け、清国は講和を打診
会議の開催地は、長崎、広島などが候補に挙がったが、伊藤博文が「下関の春帆楼で」と発表した

伊藤博文・陸奥宗光胸像
下関の料亭春帆楼で日清講和会議が開催された
この講和会議には日本全権の伊藤博文、陸奥宗光、清国全権の李鴻章をはじめ両国の代表11名が出席した



日本側は内閣総理大臣 伊藤博文と外務大臣 陸奥宗光の両名を全権弁理大臣に任じた



日清講和記念館(国登録有形文化財)
明治28年(1895年)春、日清講和会議と、下関条約と呼ばれる講和条約の歴史的意義を後世に伝えるため、昭和12年(1937年)6月、講和会議の舞台となった春帆楼の隣接地に開館した
会議で使用された調度品や貴重な資料などを展示している



国の登録有形文化財で無料で入館できる



会場となった「春帆楼(しゅんぱんろう)」の屋号は伊藤博文が名付けた
春うららかな眼下の海にたくさんの帆船が浮かんでいる様からとった



伊藤博文と李鴻章の写真
館内展示物はガラスケースにより保護されているため、太めの人物が亡霊のように写ってしまう



講和会議が開かれた春帆楼の二階大広間を再現



会議の様子



清国 李鴻章の座席



李鴻章の甥で養子の李経方と馬建忠の座席



会議期間中に、李鴻章が講和に反対する一日本人青年によりピストルで近距離から狙撃される事件が起こった
日本側は、あらゆる手段を講じて国際世論からの非難をかわそうと尽力したが、李鴻章もまたしたたかで、自身に起こった災厄を清国にとっての利益に転換させようと図った



陸奥外相は、即座に手を打ち、清がいま最も望んでいるはずの即時停戦を日本側のリーダーシップによっていち速く実現すべきことを伊藤に訴えた
伊藤はこれを受けて、反対する日本軍部を数日間でまとめ、かなり早い段階でこれを清に伝え、李鴻章狙撃事件のダメージを最小限にとどめることとした



このとき調印された講和条約は下関条約と呼ばれ、清国は日本に朝鮮半島の独立承認・領土の割譲・賠償金の支払い等を約束した



史跡 春帆楼 日清講和談判場
江戸時代の末、豊中中津(大分県)奥平藩の御殿医だった蘭医・藤野玄洋は、御殿医を辞し、下関の阿弥陀寺町(現在地)で医院を開いた
専門は眼科だったが、長期療養患者のために薬湯風呂や娯楽休憩棟を造り、一献を所望する患者には妻・みちが手料理を供した
明治10年(1877年)玄洋は「神仏分離令」によって廃寺となった阿弥陀寺の方丈跡を買い取り、新たに「月波楼医院」を開業
春帆楼は玄洋没後の明治14~15年頃、伊藤博文の勧めによってみちがこの医院を改装し、割烹旅館を開いたことに始まる



明治20年(1887年)の暮れ、伊藤博文が春帆楼に宿泊した折、海は大時化で漁がなく、困り果てたみちは打ち首覚悟で禁制だったふぐを御膳に出した
法律にも「河豚食ふ者は拘置科料に処す」と定められていたが、禁令は表向きで下関の庶民は昔からふぐを食していた
若き日、高杉晋作らと食べてその味を知っていた伊藤博文は、初めてのような顔をして「こりゃあ美味い」と賞賛
翌明治21年(1888年)には、当時の山口県令(知事)原保太郎に命じて禁を解かせ、春帆楼はふぐ料理公許第一号として広く知られるようになった



撮影 令和5年5月20日
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