五木寛之氏の「百寺巡礼」では最北にある寺院。ミイラのある寺としても紹介されていた。
東北の旅では欠かすことのできない場所と心に決めていた
太平山 長勝寺
1528年(享禄元年)大浦盛信が父光信の菩提を弔うため、菊仙梵寿を開山として種里に一寺建立
種里の太平城から「太平山」の山号、光信の法名から「長勝寺」と号した
三門(重要文化財)
寛永6年(1629年)二代藩主信枚により建立
文化6年(1809年)の大修理で、下層に花頭窓を設け仁王像を置く
歴史を感じる扁額には山号の「太平山」
嘉元鐘(重要文化財)
嘉元4年(1306年)の紀年銘が切られているところから嘉元の鐘と呼ばれる。
この鐘は、長勝寺の創建より200年程前の銅鐘で、満蔵寺( 現万蔵寺 )から寄進されたものと伝えられる
三尊仏およびその厨子(青森県宝)
「蒼龍窟」と刻まれている額。
堂内に入ると何と仏像で溢れているではないか。また、嬉しいことに撮影禁止の札もない
「蒼龍窟」の意味を調べてみる
龍の持つ霊玉を取るには、蒼龍の棲む窟中に乗り込まなくてはならず。洞窟の中に入れば、一瞬にして襲われ命を落とすかもしれない
悟りをひらこうと志を立てたなら、文字通り命をかけて修行をする。ということらしい
「五百羅漢」
左右の壁面
「蒼龍窟は坐禅堂で霊玉は悟り」 この場に立ち、多くの仏様に囲まれると日常と違った感覚になる
庫裡(重要文化財)
昨日までの雨の影響か、雨傘を乾かしている風景もいい
庫裡に入るには拝観料が必要になるが、本堂・霊廟含め境内全域を案内してもらうことができる
たった一人の参拝者に対しても、覚えきれないほど詳細な説明が30分間も。本当に感激してしまう
文亀2年(1502) 津軽の祖 大浦光信が岩木山麓賀田に建築した大浦城の台所
本堂(重要文化財)
慶長16年(1610) 二代藩主信枚造営の書院造り建造物
庫裡から本堂に案内され、拝観することができる
津軽家霊屋<霊廟>(重要文化財)
津軽家歴代藩主及び奥方の霊廟五棟で江戸時代の霊廟建築
外面に津軽家の家紋の牡丹が描かれている
「環月臺(かんげつだい)」 初代藩主正室霊屋 寛文12年(1672)造
「碧巖臺(へきがんだい)」 二代藩主信枚霊屋 寛永8年(1631)造
「明鏡臺(めいきょうだい)」 二代藩主正室霊屋 寛永15年(1638)造
二代藩主信枚正室の満天姫が徳川家康の養女として嫁いだことから、牡丹ではなく徳川家の家紋「葵」の紋が描かれている
「白雲臺(はくうんだい)」 三代藩主信義霊屋 明暦2年(1656)造
「凌雲臺(りょううんだい)」 六代藩主信著霊屋 宝暦3年(1753)造
長勝寺とミイラの話
昭和29年(1954年)8月3日菩提寺長勝寺の墓地移転で、地下7mの場所に茶殻が敷き詰められた座棺に土葬されており自然ミイラ化(死蝋)した状態で発見された
板に描かれているような状況で発見されたようだ
12代藩主になることを嘱望されていた津軽承祐が18歳で病没。副装品とともにこの柩に
副装品の絹麻の帷子、筆、硯等は長勝寺に収蔵。参拝者に公開されている
柩の蓋が厳重に密閉されていたため保存状態が良かったようだ
柩の周囲には小さな仏様がたくさん置かれている
平成7年(1995年)5月20日津軽家よりの要請で火葬にされ再び埋葬された
長勝寺は自然地形が防御面に優れていた事から、出城としての性格を持って築かれた
万一の場合に「第二の城」としての役割を持っていたという
長勝寺横にある広場から津軽富士「岩木山」がはっきり見える
撮影 平成28年5月13日
東北の旅では欠かすことのできない場所と心に決めていた
太平山 長勝寺
1528年(享禄元年)大浦盛信が父光信の菩提を弔うため、菊仙梵寿を開山として種里に一寺建立
種里の太平城から「太平山」の山号、光信の法名から「長勝寺」と号した
三門(重要文化財)
寛永6年(1629年)二代藩主信枚により建立
文化6年(1809年)の大修理で、下層に花頭窓を設け仁王像を置く
歴史を感じる扁額には山号の「太平山」
嘉元鐘(重要文化財)
嘉元4年(1306年)の紀年銘が切られているところから嘉元の鐘と呼ばれる。
この鐘は、長勝寺の創建より200年程前の銅鐘で、満蔵寺( 現万蔵寺 )から寄進されたものと伝えられる
三尊仏およびその厨子(青森県宝)
「蒼龍窟」と刻まれている額。
堂内に入ると何と仏像で溢れているではないか。また、嬉しいことに撮影禁止の札もない
「蒼龍窟」の意味を調べてみる
龍の持つ霊玉を取るには、蒼龍の棲む窟中に乗り込まなくてはならず。洞窟の中に入れば、一瞬にして襲われ命を落とすかもしれない
悟りをひらこうと志を立てたなら、文字通り命をかけて修行をする。ということらしい
「五百羅漢」
左右の壁面
「蒼龍窟は坐禅堂で霊玉は悟り」 この場に立ち、多くの仏様に囲まれると日常と違った感覚になる
庫裡(重要文化財)
昨日までの雨の影響か、雨傘を乾かしている風景もいい
庫裡に入るには拝観料が必要になるが、本堂・霊廟含め境内全域を案内してもらうことができる
たった一人の参拝者に対しても、覚えきれないほど詳細な説明が30分間も。本当に感激してしまう
文亀2年(1502) 津軽の祖 大浦光信が岩木山麓賀田に建築した大浦城の台所
本堂(重要文化財)
慶長16年(1610) 二代藩主信枚造営の書院造り建造物
庫裡から本堂に案内され、拝観することができる
津軽家霊屋<霊廟>(重要文化財)
津軽家歴代藩主及び奥方の霊廟五棟で江戸時代の霊廟建築
外面に津軽家の家紋の牡丹が描かれている
「環月臺(かんげつだい)」 初代藩主正室霊屋 寛文12年(1672)造
「碧巖臺(へきがんだい)」 二代藩主信枚霊屋 寛永8年(1631)造
「明鏡臺(めいきょうだい)」 二代藩主正室霊屋 寛永15年(1638)造
二代藩主信枚正室の満天姫が徳川家康の養女として嫁いだことから、牡丹ではなく徳川家の家紋「葵」の紋が描かれている
「白雲臺(はくうんだい)」 三代藩主信義霊屋 明暦2年(1656)造
「凌雲臺(りょううんだい)」 六代藩主信著霊屋 宝暦3年(1753)造
長勝寺とミイラの話
昭和29年(1954年)8月3日菩提寺長勝寺の墓地移転で、地下7mの場所に茶殻が敷き詰められた座棺に土葬されており自然ミイラ化(死蝋)した状態で発見された
板に描かれているような状況で発見されたようだ
12代藩主になることを嘱望されていた津軽承祐が18歳で病没。副装品とともにこの柩に
副装品の絹麻の帷子、筆、硯等は長勝寺に収蔵。参拝者に公開されている
柩の蓋が厳重に密閉されていたため保存状態が良かったようだ
柩の周囲には小さな仏様がたくさん置かれている
平成7年(1995年)5月20日津軽家よりの要請で火葬にされ再び埋葬された
長勝寺は自然地形が防御面に優れていた事から、出城としての性格を持って築かれた
万一の場合に「第二の城」としての役割を持っていたという
長勝寺横にある広場から津軽富士「岩木山」がはっきり見える
撮影 平成28年5月13日
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