訪問日 令和3年5月24日
世界遺産 高野山 <大門>
2013年秋に一度訪れ「金剛峯寺・奥の院・金剛三昧院」を回ったことがある
自宅に戻り調べてみると、重要な部分が抜け落ちていることに気付いた
年齢的に急がねばならないと思い、昨年秋に周辺で3~4日待機していたが雨続きで断念した
今年は梅雨が早く旅を始めてから毎日のように雨が降っている
午前中は降水確率が低いという天気予報を確認し、早朝に道の駅「柿の郷くどやま」を出発した
大門(重要文化財)
車の運転は好きだが、高野山への道は坂とカーブの連続で油断できず疲れてしまう
それが理由ではないが、大門を通り過ぎてしまった(写真は帰り際に撮ったもの)
「大門の扁額」
山号「高野山」が一文字ずつ扁額として掲げられている
山号自体は弘仁7年(816年)に空海が嵯峨天皇から下賜されたもの
扁額は空海の筆跡で残された文書から拡大したものだとされる
高野山の総門 高さ25m、間口21m、奥行8mで和歌山県最大の楼門
前身は開創当時の高野山西口の鳥居とされ、永治元年(1441年)に楼門に改められた
その後、焼失と再建を繰り返し、現在の大門は宝永2年(1705年)に建立されたもの
金剛力士像(仁王像)
東大寺南大門の金剛力士像に次ぐ巨像
阿形像(仏師:康意作)
吽形像(仏師:雲長作)
高野山 <壇上伽藍①>
高野山において、空海の廟所のある「奥の院」とともに二大聖地とされるのが「壇上伽藍」である
開創当時から高野山の中心とされた聖域であり、主要な堂宇が集まっている
空海は高野山を開くにあたり曼荼羅の世界を具現化しようとしたという
空海の構想に基づく密教伽藍が形になったのは、没後半世紀を経た仁和3年(887年)であった
中門
伽藍の正門として南側入り口に建つ
弘仁10年(819年)の創建以来、焼失・再建を繰り返す
平成27年(2015年)、高野山開創1200年記念大法会を期して再建された
四天王像
持国天・多聞天(江戸時代末期の作)
増長天・広目天像も新造して四天王像を安置する四天門として甦った
金堂
壇上伽藍の中心で高野山一山の総本堂にあたり、重要な法会の多くはここで行われる
金堂は当初は「講堂」と呼ばれていた
創建当時の本尊は薬師如来は絶対秘仏で一度も公開されることなく昭和元年(1926年)の火災で焼失した
現在の本尊は彫刻家 高村光雲によって造られた薬師如来(秘仏)
7代目の本堂は昭和7年(1932年)に落慶
屋根は入母屋造、梁間23.8m、桁行30m、高さ23.73m
耐震、耐火の鉄筋コンクリート造で外部に檜材を貼り付けた木造建築の外観
六角経蔵(荒川経蔵)
平治元年(1159年)鳥羽天皇の皇后であった美福門院得子が鳥羽天皇の菩提を弔うために創建
紺紙金泥一切経を納置するとともに、一切経会料として紀伊国荒川荘を寄進した
金泥一切蔵、荒川経蔵とも呼ばれている
現在の経蔵は昭和9年(1934年)の再建
山王院(重要文化財)
御社(みやしろ)の拝殿として建てられた
承安元年(1171年)以前の創建 現在の堂は1845年の再建
桁行21.3m、梁間7.8m
山王院とは地主の神を山王として礼拝する場所の意味
堂では「竪精(りっせい)明神論議や御最勝講(みさいしょうこう)」と呼ばれる重要な学道行事が行われる
毎月16日には明神様に「御法楽」として捧げる月例の論議や法会も行われている
山内の僧侶にとっては、仏教を学び、修行した成果が試される試験場となる
御社<明神社>(重要文化財)
弘法大師が弘仁10年(819年)に山麓の丹生都比売神社(天野社)から地主神として勧請、高野山の鎮守としている
現在の社殿3棟は、大永2年(1522年)の再建
社殿は三つある
一の宮:丹生都比売命・気比明神
二の宮:高野明神(狩場明神)・厳島明神
総 社:十二王子・百二十伴神
西塔(重要文化財)
空海の伽藍建立計画の『御図記』に従い、第二世・真然が大塔に続いて、仁和3年(887年)初代塔を建立
根本大塔(胎蔵界)と西塔(金剛界)を二基一対として建立された
現在の塔は5代目で天保5年(1834年)の再建
高さ27.27m 擬宝珠(ぎぼし)高欄付多宝塔 本瓦型銅板葺
孔雀堂
正治2年(1200年)延杲大僧正が請雨祈願が成就したことにより後鳥羽法皇の賞賜として建立
現在の堂は、弘法大師御入定1150年御遠忌記念事業として昭和58年(1980年)再建
准胝堂
光孝天皇の御願により第二世真然大徳が973年ごろ創建
現在の堂は明治16年(1883年)再建
本尊は准胝観音(准胝仏母)で、空海が出家得度の際の本尊として自ら造立したと伝わる
鐘楼
御影堂
大師の持仏堂として創建され、天保14年(1843年)の大火で消失し、弘化4年(1847年)再建
梁間15.1mの向背付宝形造檜皮葺
入定後は、実恵僧都が師の御影を安置する堂とした
三鈷の松
空海が、恵果から密教を受法後、大同元年(806年)に中国・寧波の浜から「密教を弘通するため」の地を求めんと願いつつ、三鈷杵(飛行三鈷杵)を投げた
嵯峨天皇より、勅許を得て高野山を下賜され、伽藍を造営の途中に、空海が松に掛かった三鈷杵を見つけ、高野山を「修禅の道場」とするのに相応の地であると確信した
次回に続く
撮影 令和3年5月24日
世界遺産 高野山 <大門>
2013年秋に一度訪れ「金剛峯寺・奥の院・金剛三昧院」を回ったことがある
自宅に戻り調べてみると、重要な部分が抜け落ちていることに気付いた
年齢的に急がねばならないと思い、昨年秋に周辺で3~4日待機していたが雨続きで断念した
今年は梅雨が早く旅を始めてから毎日のように雨が降っている
午前中は降水確率が低いという天気予報を確認し、早朝に道の駅「柿の郷くどやま」を出発した
大門(重要文化財)
車の運転は好きだが、高野山への道は坂とカーブの連続で油断できず疲れてしまう
それが理由ではないが、大門を通り過ぎてしまった(写真は帰り際に撮ったもの)
「大門の扁額」
山号「高野山」が一文字ずつ扁額として掲げられている
山号自体は弘仁7年(816年)に空海が嵯峨天皇から下賜されたもの
扁額は空海の筆跡で残された文書から拡大したものだとされる
高野山の総門 高さ25m、間口21m、奥行8mで和歌山県最大の楼門
前身は開創当時の高野山西口の鳥居とされ、永治元年(1441年)に楼門に改められた
その後、焼失と再建を繰り返し、現在の大門は宝永2年(1705年)に建立されたもの
金剛力士像(仁王像)
東大寺南大門の金剛力士像に次ぐ巨像
阿形像(仏師:康意作)
吽形像(仏師:雲長作)
高野山 <壇上伽藍①>
高野山において、空海の廟所のある「奥の院」とともに二大聖地とされるのが「壇上伽藍」である
開創当時から高野山の中心とされた聖域であり、主要な堂宇が集まっている
空海は高野山を開くにあたり曼荼羅の世界を具現化しようとしたという
空海の構想に基づく密教伽藍が形になったのは、没後半世紀を経た仁和3年(887年)であった
中門
伽藍の正門として南側入り口に建つ
弘仁10年(819年)の創建以来、焼失・再建を繰り返す
平成27年(2015年)、高野山開創1200年記念大法会を期して再建された
四天王像
持国天・多聞天(江戸時代末期の作)
増長天・広目天像も新造して四天王像を安置する四天門として甦った
金堂
壇上伽藍の中心で高野山一山の総本堂にあたり、重要な法会の多くはここで行われる
金堂は当初は「講堂」と呼ばれていた
創建当時の本尊は薬師如来は絶対秘仏で一度も公開されることなく昭和元年(1926年)の火災で焼失した
現在の本尊は彫刻家 高村光雲によって造られた薬師如来(秘仏)
7代目の本堂は昭和7年(1932年)に落慶
屋根は入母屋造、梁間23.8m、桁行30m、高さ23.73m
耐震、耐火の鉄筋コンクリート造で外部に檜材を貼り付けた木造建築の外観
六角経蔵(荒川経蔵)
平治元年(1159年)鳥羽天皇の皇后であった美福門院得子が鳥羽天皇の菩提を弔うために創建
紺紙金泥一切経を納置するとともに、一切経会料として紀伊国荒川荘を寄進した
金泥一切蔵、荒川経蔵とも呼ばれている
現在の経蔵は昭和9年(1934年)の再建
山王院(重要文化財)
御社(みやしろ)の拝殿として建てられた
承安元年(1171年)以前の創建 現在の堂は1845年の再建
桁行21.3m、梁間7.8m
山王院とは地主の神を山王として礼拝する場所の意味
堂では「竪精(りっせい)明神論議や御最勝講(みさいしょうこう)」と呼ばれる重要な学道行事が行われる
毎月16日には明神様に「御法楽」として捧げる月例の論議や法会も行われている
山内の僧侶にとっては、仏教を学び、修行した成果が試される試験場となる
御社<明神社>(重要文化財)
弘法大師が弘仁10年(819年)に山麓の丹生都比売神社(天野社)から地主神として勧請、高野山の鎮守としている
現在の社殿3棟は、大永2年(1522年)の再建
社殿は三つある
一の宮:丹生都比売命・気比明神
二の宮:高野明神(狩場明神)・厳島明神
総 社:十二王子・百二十伴神
西塔(重要文化財)
空海の伽藍建立計画の『御図記』に従い、第二世・真然が大塔に続いて、仁和3年(887年)初代塔を建立
根本大塔(胎蔵界)と西塔(金剛界)を二基一対として建立された
現在の塔は5代目で天保5年(1834年)の再建
高さ27.27m 擬宝珠(ぎぼし)高欄付多宝塔 本瓦型銅板葺
孔雀堂
正治2年(1200年)延杲大僧正が請雨祈願が成就したことにより後鳥羽法皇の賞賜として建立
現在の堂は、弘法大師御入定1150年御遠忌記念事業として昭和58年(1980年)再建
准胝堂
光孝天皇の御願により第二世真然大徳が973年ごろ創建
現在の堂は明治16年(1883年)再建
本尊は准胝観音(准胝仏母)で、空海が出家得度の際の本尊として自ら造立したと伝わる
鐘楼
御影堂
大師の持仏堂として創建され、天保14年(1843年)の大火で消失し、弘化4年(1847年)再建
梁間15.1mの向背付宝形造檜皮葺
入定後は、実恵僧都が師の御影を安置する堂とした
三鈷の松
空海が、恵果から密教を受法後、大同元年(806年)に中国・寧波の浜から「密教を弘通するため」の地を求めんと願いつつ、三鈷杵(飛行三鈷杵)を投げた
嵯峨天皇より、勅許を得て高野山を下賜され、伽藍を造営の途中に、空海が松に掛かった三鈷杵を見つけ、高野山を「修禅の道場」とするのに相応の地であると確信した
次回に続く
撮影 令和3年5月24日
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