訪問日 令和3年5月25日
磯長山 叡福寺
昨年秋に初めて訪れ、「聖徳太子御廟」に感動した
駐車場に着くなり檀家だというご家族から声をかけられ歓迎された(嬉)
「南大門」
天正2年(1574年)の兵火で焼かれ、慶長年間に再建
腐朽のため昭和33年(1958年)に再々建築された
扁額「聖徳廟」は(内閣総理大臣)岸信介筆
金剛力士像
由緒
手水舎
多宝塔(重要文化財)
承応元年(1652年)の再建
本尊は東面に釈迦・文殊・普賢の三尊像、西面に金剛界の大日如来を安置
4本の柱には四天王の像が描かれている
「宝蔵」
土・日・祝日に開館
金堂(大阪府指定文化財)
享保17年(1732年)に再建
本尊は高さ90mの如意輪観音の坐像
聖徳太子の本地が観世音菩薩であるという平安朝以来の信仰に基づいている
額には山号の「磯長山」
聖霊殿<太子堂>(重要文化財)
太子堂とも呼ばれ、聖徳太子16歳植髪等身像と南無仏太子2歳像が祀られている
文治3年(1187年)後鳥羽天皇が宮中にあった16歳像を下賜された
聖徳太子御廟(宮内庁管轄)
「二天門」
1688年の再建
東に持国天、西に増長天を安置
「聖徳太子御廟」
空海や親鸞が御廟の前で額ずいたと何かの本で読んだことがある
「上の御堂」
熱心に写真を撮っている方がいたので先に周辺を歩いてみる
元禄元年(1688年)丹南藩主・高木主水正が、回廊・二天門・鐘楼などと一緒に寄進
聖徳太子摂政像(42歳)を祀る
「五字ケ峰」
太子が黒駒に載り全国行脚の道中、富士山頂に至った折、西方より五色の光を見いだされた場所
御廟を斜め横から
直径54・3m、高さ7.2mの円墳
横穴式石室
聖徳太子と太子の母・穴穂部間人皇女、太子の妃・膳部大郎女の三体を合葬した三骨一廟
寺伝によれば、聖徳太子は生前、推古天皇28年(620年)にこの地を墓所と定めたという
推古天皇29年(621年)、穴穂部間人皇女が没するとここに葬られる
推古天皇30年(622年)には、相次いで没した聖徳太子と妃の膳部菩岐々美郎女が追葬されたといわれる
太子の没後、伯母にあたる推古天皇が土地建物を寄進し、墓守りの住む堂を建てたのが叡福寺の始まりとされている
「太子廟窟偈」
聖徳太子が遺言の形として記された偈文
一度この御廟を参詣すれば極楽浄土にいけると最後に記されている
「浄土堂」
慶長2年(1597年)伊藤加賀守秀盛の再建
弘法大師参籠の時、九十九夜にわたって御廟の中から音楽が聞こえ、三尊がご来迎されたという
鐘楼(大阪府指定文化財)
慶長年間(1596年 - 1615年)豊臣秀頼により再建
「見真大師堂」
明治45年(1912年)の建立
本尊は親鸞聖人坐像
聖人が88歳で参籠の折、自らこの像を刻んで遺されたという
「弘法大師堂」
本尊の弘法大師像(60歳)は、自ら三鈷をもって刻んだと伝えられる
「念仏堂」
金堂と多宝塔
撮影 令和3年5月25日
磯長山 叡福寺
昨年秋に初めて訪れ、「聖徳太子御廟」に感動した
駐車場に着くなり檀家だというご家族から声をかけられ歓迎された(嬉)
「南大門」
天正2年(1574年)の兵火で焼かれ、慶長年間に再建
腐朽のため昭和33年(1958年)に再々建築された
扁額「聖徳廟」は(内閣総理大臣)岸信介筆
金剛力士像
由緒
手水舎
多宝塔(重要文化財)
承応元年(1652年)の再建
本尊は東面に釈迦・文殊・普賢の三尊像、西面に金剛界の大日如来を安置
4本の柱には四天王の像が描かれている
「宝蔵」
土・日・祝日に開館
金堂(大阪府指定文化財)
享保17年(1732年)に再建
本尊は高さ90mの如意輪観音の坐像
聖徳太子の本地が観世音菩薩であるという平安朝以来の信仰に基づいている
額には山号の「磯長山」
聖霊殿<太子堂>(重要文化財)
太子堂とも呼ばれ、聖徳太子16歳植髪等身像と南無仏太子2歳像が祀られている
文治3年(1187年)後鳥羽天皇が宮中にあった16歳像を下賜された
聖徳太子御廟(宮内庁管轄)
「二天門」
1688年の再建
東に持国天、西に増長天を安置
「聖徳太子御廟」
空海や親鸞が御廟の前で額ずいたと何かの本で読んだことがある
「上の御堂」
熱心に写真を撮っている方がいたので先に周辺を歩いてみる
元禄元年(1688年)丹南藩主・高木主水正が、回廊・二天門・鐘楼などと一緒に寄進
聖徳太子摂政像(42歳)を祀る
「五字ケ峰」
太子が黒駒に載り全国行脚の道中、富士山頂に至った折、西方より五色の光を見いだされた場所
御廟を斜め横から
直径54・3m、高さ7.2mの円墳
横穴式石室
聖徳太子と太子の母・穴穂部間人皇女、太子の妃・膳部大郎女の三体を合葬した三骨一廟
寺伝によれば、聖徳太子は生前、推古天皇28年(620年)にこの地を墓所と定めたという
推古天皇29年(621年)、穴穂部間人皇女が没するとここに葬られる
推古天皇30年(622年)には、相次いで没した聖徳太子と妃の膳部菩岐々美郎女が追葬されたといわれる
太子の没後、伯母にあたる推古天皇が土地建物を寄進し、墓守りの住む堂を建てたのが叡福寺の始まりとされている
「太子廟窟偈」
聖徳太子が遺言の形として記された偈文
一度この御廟を参詣すれば極楽浄土にいけると最後に記されている
「浄土堂」
慶長2年(1597年)伊藤加賀守秀盛の再建
弘法大師参籠の時、九十九夜にわたって御廟の中から音楽が聞こえ、三尊がご来迎されたという
鐘楼(大阪府指定文化財)
慶長年間(1596年 - 1615年)豊臣秀頼により再建
「見真大師堂」
明治45年(1912年)の建立
本尊は親鸞聖人坐像
聖人が88歳で参籠の折、自らこの像を刻んで遺されたという
「弘法大師堂」
本尊の弘法大師像(60歳)は、自ら三鈷をもって刻んだと伝えられる
「念仏堂」
金堂と多宝塔
撮影 令和3年5月25日
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