今、出発の刻(たびだちのとき)

車中泊によるきままな旅
<名所旧跡を訪ねる>

松陰神社・松下村塾(山口県萩市椿東1537)

2023年07月14日 | 神社・仏閣
訪問日 令和5年5月19日

松陰神社
明治維新の先覚者 吉田松陰を祀る

大鳥居
石柱の「松陰神社」は吉田松陰自筆の文字(松陰の書簡等から文字を抜き出したもの)
鳥居扁額の「松陰神社」は岸信介元首相により揮毫されたもの



表参道を進む



境内案内図



吉田松陰 歌碑
松陰が家族にあてた別れの手紙の中の短歌
親思ふ こころにまさる 親ごころ けふの音ずれ 何ときくらん



幼時の名字は杉。幼名は寅之助。吉田家に養子入り、大次郎に改める。通称は寅次郎



石碑 天皇陛下 皇后陛下 行幸啓(上皇陛下)



石碑 皇太子殿下 皇太子妃殿下(天皇陛下)






松下村塾(世界遺産)
天保13年(1842年)に松陰の叔父、玉木文之進が八畳一間の私塾を開き「松下村塾」と名付け、少年だった松陰も入門した
ついで松陰の外叔、久保五郎左衛門がその名を継承し、塾生の教育にあたった
長州藩の公立校である明倫館は武士身分の者しか入れなかった
対照的に松下村塾は身分の隔てなく塾生を受け入れた



安政4年(1857年)より、藩校明倫館の塾頭を務めていた吉田松陰が同塾を引き継いだ
著名な門下生である高杉晋作、久坂玄瑞は、「識の高杉、才の久坂」と称され、「松下村塾の双璧」と呼ばれた
この2人に吉田稔麿を入れて松陰門下の三秀と言い、さらに入江九一を合わせて「松下村塾の四天王」と称された



安政5年(1858年)、松陰が野山獄に再投獄され、また幕末動乱期に至って塾生の多くが地元を離れたため中絶した






吉田松陰が同塾で指導した短い時期の塾生の中から、幕末より明治期の日本を主導した人材を多く輩出した



吉田松陰幽囚ノ旧宅(世界遺産・史跡)



旧宅は、木造瓦葺き平屋建て214㎡の建物で、8畳3室、6畳3室、4畳、3畳7分、3畳半・3畳および2畳各1室ほか、板間・物置・土間を有する



松陰は、安政元年(1854年)3月27日に伊豆下田でアメリカ軍艦による海外渡航に失敗して江戸伝馬町の牢に捕らえられ、ついで萩に送られ野山獄に入れられた
翌年に釈放となったが、父杉百合之助預けとなり、この実家である杉家に帰され謹慎生活を送り、読書と著述に専念した



幽囚室は東側にある3畳半の一室



松陰は家族からの薦めもあり幽囚室で孟子や武教全書などを講じた
次第に多くの若者が参加するようになり、やがて松陰は松下村塾を主宰するようになった



松陰神社



狛犬






拝殿



拝殿内部



本殿



勧学堂







松門神社









傘みくじ



運が開けるという



学びの道
道の左右には松陰語録



暗い夜道でも足もとを照らしてくれる






撮影 令和5年5月19日
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