訪問日 令和4年5月27日
南面山 屋島寺 (やしまじ)その2
四国八十八カ所第84番札所
山門(仁王門)
車遍路では駐車場の関係で東大門から入るが、歩き遍路の場合この山門が入口となる
こちらが正規の参拝順となる
瓦葺 入母屋造 三間一戸 八脚門
額には山号の「南面山」
仁王像
この寺院は初めて訪れるため予備知識も資料もなく、何か物足りなさを感じていた
他に何かないのかと周囲を散策して、この山門と仁王像の存在を知った
作者も年代もわからないが、迫力ある仁王像である
仁王像シリーズの企画をしているので枚数が増えてしまった
四天門側から見た山門
四天門
進むと進むと四天門が見えてくる
芭蕉句碑「松に月 古き景色を 時雨けり」
貞享2年(1685年)建立 瓦葺 入母屋造 三間一戸 八脚門
持国天像(東)
増長天像(南)
広目天像(西)
多聞天像(北)
手水舎
可正桜
本堂(重要文化財)
山門から一直線上に本堂がある
桁行五間、梁間五間、一重、入母屋造、向拝三間、本瓦葺
源平屋島古戦場1
元暦2年(1185年)2月19日に行なわれた讃岐屋島での源平合戦
治承・寿永の乱の戦いの一つ
寿永2年(1183年)7月、源義仲に敗れた平氏は安徳天皇と三種の神器を奉じて都を落ち、九州大宰府まで逃れた
在地の武士たちの抵抗で追われてしまい、船で流浪していたが、阿波国の田口成良に迎えられて讃岐国屋島に本拠を置くことができた
平氏は屋島に内裏を置いて本拠とし、平知盛を大将に長門国彦島にも拠点を置いた
平氏はこの拠点に有力な水軍を擁して瀬戸内海の制海権を握り、諸国からの貢納を押さえ力を蓄えていた
源平屋島古戦場2
家を出る前にNHK大河ドラマ「鎌倉殿の13人」でこの場面があったので楽しみにしていたが思考と現実がかみ合わない
地元の男性に声をかけ、古戦場はこの場所なのかと尋ねると「そうだ」と
今は埋め立てられて家が建っているが、その男性が子供だった60年ほど前は海で塩田もあったという
歴史に大変詳しく義経の動きから平家の動きまで講談師のように語ってくれた
2月18日午前2時、暴風雨のために諸将は出航を見合わせ、船頭らも暴風を恐れて出港を拒んだが
義経は郎党に命じて弓で船頭を脅して、僅か5艘150騎で出航を強行
同日午前6時に義経の船団は暴風雨をつき通常3日の航路を4時間ほどで阿波国勝浦に到着した
義経は平氏方の豪族桜庭良遠(田口成良の弟)の舘を襲って打ち破る
その後、徹夜で讃岐国へ進撃して翌2月19日に屋島の対岸に至った
寡兵であることを悟られないために、義経は周辺の民家に火をかけて大軍の襲来と見せかけ、一気に屋島の内裏へと攻め込んだ
海上からの攻撃のみを予想していた平氏軍は狼狽し、内裏を捨てて、屋島と庵治半島の間の檀ノ浦浜付近の海上へ逃げ出した
海の向こうの比較的大きな緑色した屋根の場所が、那須与一が矢を放った所だそうだ
歴史は想像であるがロマンがあって楽しい
撮影日 令和4年5月27日
南面山 屋島寺 (やしまじ)その2
四国八十八カ所第84番札所
山門(仁王門)
車遍路では駐車場の関係で東大門から入るが、歩き遍路の場合この山門が入口となる
こちらが正規の参拝順となる
瓦葺 入母屋造 三間一戸 八脚門
額には山号の「南面山」
仁王像
この寺院は初めて訪れるため予備知識も資料もなく、何か物足りなさを感じていた
他に何かないのかと周囲を散策して、この山門と仁王像の存在を知った
作者も年代もわからないが、迫力ある仁王像である
仁王像シリーズの企画をしているので枚数が増えてしまった
四天門側から見た山門
四天門
進むと進むと四天門が見えてくる
芭蕉句碑「松に月 古き景色を 時雨けり」
貞享2年(1685年)建立 瓦葺 入母屋造 三間一戸 八脚門
持国天像(東)
増長天像(南)
広目天像(西)
多聞天像(北)
手水舎
可正桜
本堂(重要文化財)
山門から一直線上に本堂がある
桁行五間、梁間五間、一重、入母屋造、向拝三間、本瓦葺
源平屋島古戦場1
元暦2年(1185年)2月19日に行なわれた讃岐屋島での源平合戦
治承・寿永の乱の戦いの一つ
寿永2年(1183年)7月、源義仲に敗れた平氏は安徳天皇と三種の神器を奉じて都を落ち、九州大宰府まで逃れた
在地の武士たちの抵抗で追われてしまい、船で流浪していたが、阿波国の田口成良に迎えられて讃岐国屋島に本拠を置くことができた
平氏は屋島に内裏を置いて本拠とし、平知盛を大将に長門国彦島にも拠点を置いた
平氏はこの拠点に有力な水軍を擁して瀬戸内海の制海権を握り、諸国からの貢納を押さえ力を蓄えていた
源平屋島古戦場2
家を出る前にNHK大河ドラマ「鎌倉殿の13人」でこの場面があったので楽しみにしていたが思考と現実がかみ合わない
地元の男性に声をかけ、古戦場はこの場所なのかと尋ねると「そうだ」と
今は埋め立てられて家が建っているが、その男性が子供だった60年ほど前は海で塩田もあったという
歴史に大変詳しく義経の動きから平家の動きまで講談師のように語ってくれた
2月18日午前2時、暴風雨のために諸将は出航を見合わせ、船頭らも暴風を恐れて出港を拒んだが
義経は郎党に命じて弓で船頭を脅して、僅か5艘150騎で出航を強行
同日午前6時に義経の船団は暴風雨をつき通常3日の航路を4時間ほどで阿波国勝浦に到着した
義経は平氏方の豪族桜庭良遠(田口成良の弟)の舘を襲って打ち破る
その後、徹夜で讃岐国へ進撃して翌2月19日に屋島の対岸に至った
寡兵であることを悟られないために、義経は周辺の民家に火をかけて大軍の襲来と見せかけ、一気に屋島の内裏へと攻め込んだ
海上からの攻撃のみを予想していた平氏軍は狼狽し、内裏を捨てて、屋島と庵治半島の間の檀ノ浦浜付近の海上へ逃げ出した
海の向こうの比較的大きな緑色した屋根の場所が、那須与一が矢を放った所だそうだ
歴史は想像であるがロマンがあって楽しい
撮影日 令和4年5月27日
※コメント投稿者のブログIDはブログ作成者のみに通知されます