訪問日 令和4年5月26日
補陀洛山 長尾寺(ながおじ)
四国八十八カ所第87番札所
天平11年( 739年)に行基菩薩がこの地を訪れ、霊感を得られ柳の木「楊柳」をもって聖観世音菩薩像を刻み本尊とし、 堂宇を建立して安置したのが始まりとされる

経幢(きょうどう)2基(重要文化財)
元冦の役出征将兵の霊を慰めるために建てられた「経幢」

東側のものが弘安9年(1286年)の建立

西側のものが弘安6年(1283年)

山門
日本三大名門の1つという
寛文10年(1670年)建立とされ、三つ棟木という珍しい工法で知られる

鐘楼門にもなっている

額には山号の「補陀洛山」

梵鐘

人の姿が刻まれているのはこれまで記憶にない

門の両側には4mの大草鞋が掛けられている

仁王像
網目が細かく条件は悪かったが、網にレンズを付け大きく撮って何とかここまでになった




手水舎

薬師堂


大師堂
空海が渡唐前、入唐求法の成功を祈願し年頭七夜の護摩の秘法を修し、その7日目の夜に護摩符を丘の上より人々に投げ与えたとの伝説がある

天長2年(825年)唐より帰朝した空海は大日経を一石に一字写経の万霊供養塔(現存せず)を建立し伽藍を整え真言宗に改宗した

大正時代に再建された堂宇
美しい彫刻で飾られている


「弘法」の額
堂の回りに十二支の彫刻

本堂
本尊:聖観世音菩薩
平成26年(2014年)5月18日だけ本尊が開帳された


唐門の彫刻



額には「聖観世音」
奉納額にはご詠歌の
「あしびきの 山鳥の尾の長尾寺 秋の夜すがら 御名をとなえよ」


護摩堂


静御前剃髪塚
吉野山の山中で、静御前は身の安全を配慮されたため義経と別れるが捕まり、母・磯禅師とともに鎌倉へ送られる
頼朝とその妻・北条政子に命じられて、鶴岡八幡宮の社前で静御前が舞ったときの歌
「しづやしづ しづのをだまき くり返し 昔を今に なすよしもがな」
「吉野山 峰の白雪 ふみわけて 入りにし人の 跡ぞ恋しき」
どちらも義経を恋い慕う内容で、頼朝を激怒させたが
政子が「自分も同じ立場ならこうする」と取りなして、命を助けられた

静御前は義経の子を宿していて、文治2年(1186年)7月29日に出産した
生まれた子供が女の子なら救うが、男の子なら将来の禍根を残さないために殺す、と告げられていた
生まれてきたのは男の子で、頼朝の家来の手に渡った義経の子は、鎌倉の由比ヶ浜に沈められた
その1カ月半ほど後、静御前は母とともに京へ帰される
頼朝の妻・政子母娘が静御前を憐れみ、たくさんの宝物を持たせたという
その後の静御前がどうなったのか、いつ頃まで生きたのか、記録は何も残っていない

吉野山で義経と惜別した静 御前(宥心尼)が、母磯禅師(磯禅尼)と共にこの古里に帰って長尾寺で得度し、今は位牌となって祀られている

左から、護摩堂・本堂・大師堂

撮影日 令和4年5月26日
補陀洛山 長尾寺(ながおじ)
四国八十八カ所第87番札所
天平11年( 739年)に行基菩薩がこの地を訪れ、霊感を得られ柳の木「楊柳」をもって聖観世音菩薩像を刻み本尊とし、 堂宇を建立して安置したのが始まりとされる

経幢(きょうどう)2基(重要文化財)
元冦の役出征将兵の霊を慰めるために建てられた「経幢」

東側のものが弘安9年(1286年)の建立

西側のものが弘安6年(1283年)

山門
日本三大名門の1つという
寛文10年(1670年)建立とされ、三つ棟木という珍しい工法で知られる

鐘楼門にもなっている

額には山号の「補陀洛山」

梵鐘

人の姿が刻まれているのはこれまで記憶にない

門の両側には4mの大草鞋が掛けられている

仁王像
網目が細かく条件は悪かったが、網にレンズを付け大きく撮って何とかここまでになった




手水舎

薬師堂


大師堂
空海が渡唐前、入唐求法の成功を祈願し年頭七夜の護摩の秘法を修し、その7日目の夜に護摩符を丘の上より人々に投げ与えたとの伝説がある

天長2年(825年)唐より帰朝した空海は大日経を一石に一字写経の万霊供養塔(現存せず)を建立し伽藍を整え真言宗に改宗した

大正時代に再建された堂宇
美しい彫刻で飾られている


「弘法」の額
堂の回りに十二支の彫刻

本堂
本尊:聖観世音菩薩
平成26年(2014年)5月18日だけ本尊が開帳された


唐門の彫刻



額には「聖観世音」
奉納額にはご詠歌の
「あしびきの 山鳥の尾の長尾寺 秋の夜すがら 御名をとなえよ」


護摩堂


静御前剃髪塚
吉野山の山中で、静御前は身の安全を配慮されたため義経と別れるが捕まり、母・磯禅師とともに鎌倉へ送られる
頼朝とその妻・北条政子に命じられて、鶴岡八幡宮の社前で静御前が舞ったときの歌
「しづやしづ しづのをだまき くり返し 昔を今に なすよしもがな」
「吉野山 峰の白雪 ふみわけて 入りにし人の 跡ぞ恋しき」
どちらも義経を恋い慕う内容で、頼朝を激怒させたが
政子が「自分も同じ立場ならこうする」と取りなして、命を助けられた

静御前は義経の子を宿していて、文治2年(1186年)7月29日に出産した
生まれた子供が女の子なら救うが、男の子なら将来の禍根を残さないために殺す、と告げられていた
生まれてきたのは男の子で、頼朝の家来の手に渡った義経の子は、鎌倉の由比ヶ浜に沈められた
その1カ月半ほど後、静御前は母とともに京へ帰される
頼朝の妻・政子母娘が静御前を憐れみ、たくさんの宝物を持たせたという
その後の静御前がどうなったのか、いつ頃まで生きたのか、記録は何も残っていない

吉野山で義経と惜別した静 御前(宥心尼)が、母磯禅師(磯禅尼)と共にこの古里に帰って長尾寺で得度し、今は位牌となって祀られている

左から、護摩堂・本堂・大師堂

撮影日 令和4年5月26日
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