今、出発の刻(たびだちのとき)

車中泊によるきままな旅
<名所旧跡を訪ねる>

端島<通称:軍艦島>(長崎県長崎市)

2023年08月11日 | 名所・旧跡
訪問日 令和5年5月25日

端島<通称:軍艦島>(世界遺産)
平成27年(2015年)国際記念物遺跡会議(イコモス)により、端島炭坑を構成遺産に含む
「明治日本の産業革命遺産 製鉄・製鋼、造船、石炭産業」がユネスコの世界文化遺産に登録された



長崎港から「軍艦島上陸ツアー」というのもあるが年金生活者には厳しい価格帯だった
軍艦島を一番近くから見えるという野母崎総合運動公園(軍艦島展望所)に車を走らせた



長崎市内で渋滞はあったが海岸線を走る国道499号線は快適で軍艦島の姿を見ながらのドライブ
野母崎総合運動公園はきれいに整備されていて、そこから見える景色は美しい



端島での石炭の発見は一般に文化7年(1810年)のこととされる
江戸時代の終わりまでは、漁民が漁業の傍らに「磯掘り」と称し、ごく小規模に露出炭を採炭する程度であった
明治23年(1890年)端島炭鉱の所有者であった鍋島孫太郎(旧鍋島藩深堀領主)が三菱社へ10万円で譲渡した
譲渡後は端島炭鉱の出炭量は高島炭鉱を抜くまでに成長した



この頃には社船「夕顔丸」の就航、製塩・蒸留水機設置にともなう飲料水供給開始
社立の尋常小学校の設立(1893年)など基本的な居住環境が整備され、島の周囲が段階的に埋め立てられた
大正5年(1916年)には日本で最初の鉄筋コンクリート造の集合住宅が建設された
この年には大阪朝日新聞が端島の外観を「軍艦とみまがふさうである」と報道



大正10年(1921年)に長崎日日新聞も、当時建造中だった戦艦「土佐」に似ているとして「軍艦島」と呼んでいる
「軍艦島」の通称は大正時代ごろから用いられるようになったとみられる



野母崎総合運動公園の小高い場所に「軍艦島展望所」がある



端島炭鉱は良質な強粘炭が採れ、隣接する高島炭鉱とともに、日本の近代化を支えてきた炭鉱の一つであった
労働者のための福利厚生も急速に整えられていたが、仕事は非常にきつく、1日12時間労働の2交代制
「星を頂いて入坑し星を頂いて出坑する。陽の光に当ることがない」との言葉もある



大正5年(1916年)以降から少年および婦人の坑内使役が開始
大正中期からは内地人の不足を補充するために朝鮮人労働者の使役が開始される
昭和14年(1939年)からは朝鮮人労働者の集団移入が本格化する



人口が最盛期を迎えた昭和35年(1960年)には5,267人の人口があった
人口密度は83,600人/km2と世界一を誇り東京特別区の9倍以上に達した
1960年以降は、主要エネルギーの石炭から石油への移行(エネルギー革命)により衰退



1970年代以降のエネルギー政策の影響を受け、昭和45年(1970年)に端島沖開発が中止になり、会社側が鉱命終了期を発表
その後数百万トンの石炭を残したまま昭和49年(1974年)1月15日に閉山した
4月20日の連絡船の「最終便」で退去した担当者らの離島をもって、端島は無人島となった



軍艦島展望所からの眺め



野母崎総合運動公園



軍艦島展望所から軍艦島までの距離は直線で約4km
肉眼ではぼんやり見える程度だが、デジタルカメラで撮影しパソコンで拡大するとこの程度まで見ることができる
帰り際、「良い写真が撮れたかい」と高齢者に声を掛けられた
父親が戦艦武蔵に乗っていた(生還者)そうで戦争の話しに耳を傾けた



夫婦岩
バス停近くに、4億8000万年前にできた夫婦岩がある



近くに2階建ての展望室があり撮影スポットの一つになっている



遊び心で撮ってみた



撮影 令和5年5月25日
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