訪問日 令和2年9月25日
高雄山 岩船寺
先に訪れた浄瑠璃寺駐車場の係の女性に「いわふねでら」への道を聞くと「がんせんじ」はんねと教えてくれた
ずっと読み方を間違えて覚えていた。周囲に誰もいなくてよかった(笑)
山門
浄瑠璃寺より更に数キロ奥に入った所にある。無人の駐車場だが料金箱が置いてある
駐車場から少し坂を上ると山門が見えてくる
関西花の寺、アジサイの名所として知られているようだ
だが、私の目には塔の姿が入ってくる
三重塔(重要文化財)
これまで離れた場所から塔を撮すということはなかった
山奥にある寺だけに周囲の自然環境と一体化しているような感じがする
滞在中雨が降り続いていたが、境内の整備が行き届いているため足元が汚れるということはなかった
三間三重塔婆の本瓦葺、高さは約18mで本堂南側山手の境内阿字池の奥まった高台に東を正面として建つ
寺伝によると「智泉大徳」入滅のあと10年が過ぎて、承和年間(834~847年)に仁明天皇が智泉の遺徳を偲んで宝塔を建立した
承久三年(1221年)の承久の乱で兵火を被った
現存する塔は、室町時代の嘉吉2年(1442年)に建立されたもの
鐘楼
三重塔から本堂を見る
三重塔と本堂の間にある「阿字池」
開山堂
「岩船寺縁起」によると、天平元年(729年)に聖武天皇が夢想によって行基に一宇の阿弥陀堂を建立させた
弘法大師とその甥である「智泉大徳」が伝法灌頂を修し灌頂堂として新たに報恩院を建立したのが草創の始まりとされる
弘法大師は密教を極め帰国後密教を広めようとするが、京の都に入ることは許されなかった。そしてその窮地に駆け付けたのが智泉であった
智泉は密教の灌頂を受け、以後大師ともに密教を広めるために行脚した。その後入京を許されともに高雄山神護寺に登る
智泉は高野山の開創にも尽力したが、天長2年(825年)に37歳の若さで遷化する
弘法大師は「哀しい哉、悲しい哉、復悲しい哉。悲しい哉、悲しい哉、重ねて悲しい哉」と深い悲しみの言葉を残し、智泉の死を誰よりも嘆き悲しんだ
高野山に智泉の御廟があるが、弘法大師が自ら整備に着手した壇上伽藍に唯一祀られていることからも智泉への思いの深さが察せられる
十三重石塔(重要文化財)
正和3年(1314年)妙空僧正の建立と伝える 高さ5.5m
昭和18年(1943年)の石塔積み直し修理の際、軸石のくぼみの中に水晶の五輪舎利塔が発見された
石室不動明王(重要文化財)
花崗岩製で前面二本の角材柱を立て、その上に寄棟造りの一枚岩の屋根をかけた珍しい様式
奥壁の一枚岩には薄肉彫りの不動明王像
像の右左には「応長第二初夏六日」「願主盛現」と線刻された銘文が残されている
「厄除地蔵菩薩」
五輪塔(重要文化財)
鎌倉時代作の2m余りの五輪石塔
寺伝では東大寺別当平智僧都の墓と伝えている
地輪下には返花座があるが、これは大和式と呼ばれる五輪塔の様式
本堂
昭和63年( 1988年)に再建された
本尊:阿弥陀如来坐像(重文)
興福寺や東大寺にいた高僧や修行僧の隠棲の地となり、真の仏教信仰にそそがれたという地域
辺りが薄暗くなってきたので駐車場に戻ることにした
撮影 令和2年9月25日
高雄山 岩船寺
先に訪れた浄瑠璃寺駐車場の係の女性に「いわふねでら」への道を聞くと「がんせんじ」はんねと教えてくれた
ずっと読み方を間違えて覚えていた。周囲に誰もいなくてよかった(笑)
山門
浄瑠璃寺より更に数キロ奥に入った所にある。無人の駐車場だが料金箱が置いてある
駐車場から少し坂を上ると山門が見えてくる
関西花の寺、アジサイの名所として知られているようだ
だが、私の目には塔の姿が入ってくる
三重塔(重要文化財)
これまで離れた場所から塔を撮すということはなかった
山奥にある寺だけに周囲の自然環境と一体化しているような感じがする
滞在中雨が降り続いていたが、境内の整備が行き届いているため足元が汚れるということはなかった
三間三重塔婆の本瓦葺、高さは約18mで本堂南側山手の境内阿字池の奥まった高台に東を正面として建つ
寺伝によると「智泉大徳」入滅のあと10年が過ぎて、承和年間(834~847年)に仁明天皇が智泉の遺徳を偲んで宝塔を建立した
承久三年(1221年)の承久の乱で兵火を被った
現存する塔は、室町時代の嘉吉2年(1442年)に建立されたもの
鐘楼
三重塔から本堂を見る
三重塔と本堂の間にある「阿字池」
開山堂
「岩船寺縁起」によると、天平元年(729年)に聖武天皇が夢想によって行基に一宇の阿弥陀堂を建立させた
弘法大師とその甥である「智泉大徳」が伝法灌頂を修し灌頂堂として新たに報恩院を建立したのが草創の始まりとされる
弘法大師は密教を極め帰国後密教を広めようとするが、京の都に入ることは許されなかった。そしてその窮地に駆け付けたのが智泉であった
智泉は密教の灌頂を受け、以後大師ともに密教を広めるために行脚した。その後入京を許されともに高雄山神護寺に登る
智泉は高野山の開創にも尽力したが、天長2年(825年)に37歳の若さで遷化する
弘法大師は「哀しい哉、悲しい哉、復悲しい哉。悲しい哉、悲しい哉、重ねて悲しい哉」と深い悲しみの言葉を残し、智泉の死を誰よりも嘆き悲しんだ
高野山に智泉の御廟があるが、弘法大師が自ら整備に着手した壇上伽藍に唯一祀られていることからも智泉への思いの深さが察せられる
十三重石塔(重要文化財)
正和3年(1314年)妙空僧正の建立と伝える 高さ5.5m
昭和18年(1943年)の石塔積み直し修理の際、軸石のくぼみの中に水晶の五輪舎利塔が発見された
石室不動明王(重要文化財)
花崗岩製で前面二本の角材柱を立て、その上に寄棟造りの一枚岩の屋根をかけた珍しい様式
奥壁の一枚岩には薄肉彫りの不動明王像
像の右左には「応長第二初夏六日」「願主盛現」と線刻された銘文が残されている
「厄除地蔵菩薩」
五輪塔(重要文化財)
鎌倉時代作の2m余りの五輪石塔
寺伝では東大寺別当平智僧都の墓と伝えている
地輪下には返花座があるが、これは大和式と呼ばれる五輪塔の様式
本堂
昭和63年( 1988年)に再建された
本尊:阿弥陀如来坐像(重文)
興福寺や東大寺にいた高僧や修行僧の隠棲の地となり、真の仏教信仰にそそがれたという地域
辺りが薄暗くなってきたので駐車場に戻ることにした
撮影 令和2年9月25日
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