京都でタクシーに乗り、運転手お薦めの寺に案内してもらうことになった。
寺の名を聞いても耳にしたことのない寺ではあったが、新しい発見があるかもしれない。
車は市内から離れ、細い道を上り寺のすぐ近くに横付けしてくれた。その寺の名は毘沙門堂という。
本来なら最寄りの駅から徒歩20分、そして、この石段を上ってくることになる。
だが、今日はその手間が省けた。寺から外に出て仁王門を見る。
寛文五年(1665年)に建立された阿吽の二天像が護る。
大好きな仁王像だが撮したという記憶が全くない。
一人で寺を訪れた時には自分の写真でその当時の情景を思い出せるのだが、今日は同僚4人で来ていて、運転手の説明を聞いて移動していたため、この辺りの印象が薄れている。
毘沙門堂の歴史
京都市山科区にある天台宗の寺院。山号は護法山。護法山安国院出雲寺とも称す。
本尊は毘沙門天。天台宗京都五門跡の一であり、「毘沙門堂門跡」とも呼ばれる。
創建は大宝三年(703)文武天皇の勅願で僧行基によって開かれた。
当初は出雲路(上京区・御所の北方)にあったことから護法山出雲寺といった。
桜の季節には境内は賑わうようであるが、今は紅葉前の季節で参拝者も少ない。
拝観料を払い運転手に寺の中を案内される。
庭園についての知識はないが廊下から見る風景が本当に美しい。
動く襖絵
撮影禁止なので中の様子を写真で伝えることはできないが、「えぇ~」「どうして」。
不思議な絵でつい声がでてしまう。今、流行っていることばにすると「じぇじぇじぇ」である。
宸殿内部の障壁画百十六面は、すべて狩野探幽の養子で駿河台派の始祖狩野益信の作。
どの角度から見ても、鑑賞者が中心になるという逆遠近法の手法。
圓山応挙筆。平凡な杉板戸ではあるが実に迫力のある大きな鯉が泳いでいる。
これは旧院書の板戸でその豪華さがうかがえる。鯉の眼を見ながら左右にゆっくり動くと……。
襖絵、板戸の絵そのものもすばらしく、しかも、間近で見ることができる。
机の角度が変わったり、魚などは尾びれまで動くから驚きだ。不思議でそして面白すぎて、絵の前を何往復しただろうか。
せっかく美しい庭園風景も「動く襖絵」の印象に負けてしまうほどだ。
また、来たい。皆の思いであった。
次に運転手が案内してくれたのは勧修寺。初めて聞く寺の名だ。
勧修寺の歴史
京都市山科区にある門跡寺院。真言宗山階派大本山。山号を亀甲山と称する。
開基(創立者)は醍醐天皇、開山(初代住職)は承俊、本尊は千手観音である。皇室と藤原氏にゆかりの深い寺院である。
寺名は「かんしゅうじ」「かんじゅじ」などとも読まれることがあるが、寺では「かじゅうじ」を正式の呼称としている。
樹齢750年「ハイビヤクシン」はわが国無双の名木だそうだ。
この石を撮した写真が数枚あったので調べてみた。
何かのいわれがなければ撮るはずがない。
調べた結果、石ではなく灯篭だった。
水戸光圀公寄進の「勧修寺型灯篭」といいユーモラスで有名。
この木も由緒あると聞いたが記憶に残っていない。
本来の墓はこの形だと言う説明を受けたが…。
やはり、一方的に説明を聞くという消極的な見学では記憶に残らないようだ。
説明を聞きながらずっと気になっていた建物が遠くにあった。
運転手には軽く流されてしまったが、一人 側に寄ってみた。
観音堂と書かれ、洋風の顔立ちの「美白の観音様」が安置されていた。
流された理由がわかった。
最後に、藤原高藤と宮道列子に関する説話
『今昔物語集』には次のような高藤と列子のロマンスが伝えられている。
藤原北家の流れを汲む藤原高藤は、鷹狩が趣味であった。
ある時、鷹狩のため南山階に来ていた高藤は、雨宿りのためたまたま通りがかった宮道弥益の屋敷を訪れた。
勧められるままに弥益の邸に1泊した高藤は弥益の娘(列子)に一目ぼれし、一夜の契りを結んだ。
翌日、鷹狩から帰らぬ息子を心配して待っていた、高藤の父・良門は激怒し、高藤が今後鷹狩に行くことを厳禁した。
その後、高藤と列子は長らく音信不通であった。それから6年後、高藤はようやく列子と再会する。
列子には娘がいた。6年前、高藤との一夜の契りで宿した子であった。
この娘こそが後に宇多天皇の女御となり、醍醐天皇の生母ともなった藤原胤子である。
撮影 平成21年10月13日
寺の名を聞いても耳にしたことのない寺ではあったが、新しい発見があるかもしれない。
車は市内から離れ、細い道を上り寺のすぐ近くに横付けしてくれた。その寺の名は毘沙門堂という。
本来なら最寄りの駅から徒歩20分、そして、この石段を上ってくることになる。
だが、今日はその手間が省けた。寺から外に出て仁王門を見る。
寛文五年(1665年)に建立された阿吽の二天像が護る。
大好きな仁王像だが撮したという記憶が全くない。
一人で寺を訪れた時には自分の写真でその当時の情景を思い出せるのだが、今日は同僚4人で来ていて、運転手の説明を聞いて移動していたため、この辺りの印象が薄れている。
毘沙門堂の歴史
京都市山科区にある天台宗の寺院。山号は護法山。護法山安国院出雲寺とも称す。
本尊は毘沙門天。天台宗京都五門跡の一であり、「毘沙門堂門跡」とも呼ばれる。
創建は大宝三年(703)文武天皇の勅願で僧行基によって開かれた。
当初は出雲路(上京区・御所の北方)にあったことから護法山出雲寺といった。
桜の季節には境内は賑わうようであるが、今は紅葉前の季節で参拝者も少ない。
拝観料を払い運転手に寺の中を案内される。
庭園についての知識はないが廊下から見る風景が本当に美しい。
動く襖絵
撮影禁止なので中の様子を写真で伝えることはできないが、「えぇ~」「どうして」。
不思議な絵でつい声がでてしまう。今、流行っていることばにすると「じぇじぇじぇ」である。
宸殿内部の障壁画百十六面は、すべて狩野探幽の養子で駿河台派の始祖狩野益信の作。
どの角度から見ても、鑑賞者が中心になるという逆遠近法の手法。
圓山応挙筆。平凡な杉板戸ではあるが実に迫力のある大きな鯉が泳いでいる。
これは旧院書の板戸でその豪華さがうかがえる。鯉の眼を見ながら左右にゆっくり動くと……。
襖絵、板戸の絵そのものもすばらしく、しかも、間近で見ることができる。
机の角度が変わったり、魚などは尾びれまで動くから驚きだ。不思議でそして面白すぎて、絵の前を何往復しただろうか。
せっかく美しい庭園風景も「動く襖絵」の印象に負けてしまうほどだ。
また、来たい。皆の思いであった。
次に運転手が案内してくれたのは勧修寺。初めて聞く寺の名だ。
勧修寺の歴史
京都市山科区にある門跡寺院。真言宗山階派大本山。山号を亀甲山と称する。
開基(創立者)は醍醐天皇、開山(初代住職)は承俊、本尊は千手観音である。皇室と藤原氏にゆかりの深い寺院である。
寺名は「かんしゅうじ」「かんじゅじ」などとも読まれることがあるが、寺では「かじゅうじ」を正式の呼称としている。
樹齢750年「ハイビヤクシン」はわが国無双の名木だそうだ。
この石を撮した写真が数枚あったので調べてみた。
何かのいわれがなければ撮るはずがない。
調べた結果、石ではなく灯篭だった。
水戸光圀公寄進の「勧修寺型灯篭」といいユーモラスで有名。
この木も由緒あると聞いたが記憶に残っていない。
本来の墓はこの形だと言う説明を受けたが…。
やはり、一方的に説明を聞くという消極的な見学では記憶に残らないようだ。
説明を聞きながらずっと気になっていた建物が遠くにあった。
運転手には軽く流されてしまったが、一人 側に寄ってみた。
観音堂と書かれ、洋風の顔立ちの「美白の観音様」が安置されていた。
流された理由がわかった。
最後に、藤原高藤と宮道列子に関する説話
『今昔物語集』には次のような高藤と列子のロマンスが伝えられている。
藤原北家の流れを汲む藤原高藤は、鷹狩が趣味であった。
ある時、鷹狩のため南山階に来ていた高藤は、雨宿りのためたまたま通りがかった宮道弥益の屋敷を訪れた。
勧められるままに弥益の邸に1泊した高藤は弥益の娘(列子)に一目ぼれし、一夜の契りを結んだ。
翌日、鷹狩から帰らぬ息子を心配して待っていた、高藤の父・良門は激怒し、高藤が今後鷹狩に行くことを厳禁した。
その後、高藤と列子は長らく音信不通であった。それから6年後、高藤はようやく列子と再会する。
列子には娘がいた。6年前、高藤との一夜の契りで宿した子であった。
この娘こそが後に宇多天皇の女御となり、醍醐天皇の生母ともなった藤原胤子である。
撮影 平成21年10月13日
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