昨夜も道の駅で苦労した。温泉が併設されている、あるいは7Km以内に温泉がある道の駅を探していたら「スプリングスひよし」にたどり着いたが、京都市内から随分と離れてしまった。
朝起きて洗顔を済ますと地元の方らしい男性に声を掛けられた。札幌ナンバーだったので声を掛けてくれたようだ。
北海道函館市出身の方で長く京都郊外に住んでいて庭師を職業にしていると話してくれた。
当然お寺については大変詳しく清涼寺の駐車場が便利であると、車の混まない近道まで教えてくれた。
30分程度話しをしたあとお礼を言って別れ、近道を目指して出発したが山の中に入ると土砂崩れのためその近道が通行止めになっていた。
来た道を引き返し、昨日渋滞で苦労した道に戻ったが時間的にかなりのロスがあったので高速道路を使うことにした。
京都市内の渡月橋あたりは特に観光客が多く、車道にも人があふれ出てくる有様だ。
慎重に車を進め清涼寺の駐車場を目指したが、今度は道路が狭くなり対向車に注意を払っているうちに駐車場が視界から消えていった。
急いで地図をみるとこの先に大覚寺がある。「駐車場もあるように」と念じていると願いは叶うから面白い。
前段が長くなったがこれまでの偶然の重なりがこの後友人との奇跡的な再会を果たすのである。
大覚寺の歴史
大覚寺は、京都市右京区嵯峨にある、真言宗大覚寺派大本山の寺院。
山号を嵯峨山と称する。本尊は不動明王を中心とする五大明王、開基は嵯峨天皇である。
嵯峨天皇の離宮を寺に改めた皇室ゆかりの寺院である。
また、後宇多法皇がここで院政を行うなど、日本の政治史に深い関わりをもつ寺院である。
また、嵯峨天皇に始まるという華道嵯峨御流を今に伝える寺でもある。
嵯峨野の北東に位置するこの地には、平安時代初期に在位した嵯峨天皇が離宮を営んでいた。
嵯峨天皇の信任を得ていた空海が、離宮内に五大明王を安置する堂を建て、修法を行ったのが起源とされる。
嵯峨天皇が崩御してから30数年後の貞観18年(876年)、皇女の正子内親王(淳和天皇皇后)が離宮を寺に改めたのが大覚寺である。
淳和天皇の皇子(嵯峨天皇の孫)恒貞親王(恒寂(ごうじゃく)法親王、仁明天皇の廃太子)を開山(初代住職)とした。
鎌倉時代になると、亀山法皇や後宇多法皇が入寺し、ここで院政を行ったため嵯峨御所とも呼ばれた。
亀山法皇・後宇多法皇の系統は当寺にちなんで「大覚寺統」と呼ばれ、後深草天皇の系統の「持明院統」と交代で帝位についた(両統迭立)。
この両系統が対立したことが、後の南北朝分裂につながったことはよく知られる。
元中9年(1392年)、南北朝の和解が成立し、南朝最後の天皇である後亀山天皇から北朝の後小松天皇に「三種の神器」が引き継がれたのも、ここ大覚寺においてであった。
このように、皇室ゆかりの寺院であり、代々法親王が住職となった門跡寺院であるため、現在でも御所風の雰囲気がただよっている。御所跡地が国の史跡に指定されている。
表門の入口には大覚寺の歴史について書かれた案内板がある。
宸殿を右に見ながら、式台玄関から中に入る。
宸殿(重要文化財)
東福門院(後水尾天皇中宮)の旧殿を移築したものと伝える。
蔀戸(しとみど)を用いた寝殿造風の建物で、屋根は入母屋造、檜皮葺きとし、周囲に広縁をめぐらす。
「宸殿」は門跡寺院に特有の建物名で、「宸」は「皇帝」の意である。
内部は大きく4室に分かれ、中でも南側の「牡丹の間」の牡丹図と北側の「紅梅の間」の紅梅図の襖絵(ともに狩野山楽筆 展示物は複製)は名高い。
前庭には一面に白砂が敷き詰められ、右近の橘と左近の梅(左近の「桜」ではない)がある。
各建物への移動にはこの回廊を通ることになる。
このあたりでバッグに入れてあったスマホの振動を感じたので取り出してみると、先日別府で会った、大分県の友人から短時間に5・6回着信が入っている。
嫌な予感もあったので急ぎ電話の使用できる場所に移動して電話をかけてみると。
「おまえ、大覚寺にいるだろ」「いるけど、なんで知ってる?」
「駐車場で車を見た!」「ところで、おまえはどこにいるの?」「俺か、俺はいま大覚寺にいる!」「えっ?」
「女房と友人夫婦できている、後で会おう!」ということになった。
心経殿(有形文化財)
御影堂の北に建つ。大正14年(1925)建立の鉄筋コンクリート造の小規模な八角堂で、壁面は校倉造風である。
内部には嵯峨天皇、後光厳天皇、後花園天皇、後奈良天皇、正親町天皇、光格天皇の直筆の般若心経を収蔵し、薬師如来像を安置する。
内部は非公開で、開扉は60年に一度とされている。
大沢池(名勝)
大沢池は中国の洞庭湖を模して嵯峨天皇が築造したものといわれ、当時の唐風文化の面影を今に残す園地は池の北方約100メートルにある「名古曽の滝」とともに1923(大正12年)に国の文化財として名勝に指定されている。
いけばな嵯峨御流~その人を想い、華を捧ぐ~
嵯峨天皇に始まるという華道嵯峨御流を今に伝える寺。
平安の始め嵯峨天皇が菊ヶ島に咲く菊を、殿上に捧げたのが発祥と伝えられる。
1200年経った今でも嵯峨天皇の自然や草木に対する慈しみの精神が受け継がれている。
華道に関しては全くの無知で友人との待ち合わせに時間があったため、周囲を見てみると花が展示してあったので写したという感じであった。
美しいと感じていないと写さなかったと思うのできっと感じるものがあったのだろう。
1枚目と2枚目、3枚目と4枚目は同じ場所で撮っているので制作者には申し訳ないと思う。
玄関で友人と再会した。昼食を駐車場横の蕎麦屋で食べながら話しをする。
二人とも大覚寺へは来る予定がなく彼も私と同じように偶然訪れたようだ。偶然の重なりが奇跡のような再会を果たした。
観光地の蕎麦屋ということで余り期待はしていなかったが、ここの蕎麦屋はうまかったことを付け加えておく。
今回もまた友人にご馳走になった。友人については、7月8日(臼杵石仏)の記事に記載。
大覚寺はほとんどが撮影禁止ということで誤って写ってしまったという写真はあるが、少ないのはそのような理由。
撮影 平成25年5月25日
朝起きて洗顔を済ますと地元の方らしい男性に声を掛けられた。札幌ナンバーだったので声を掛けてくれたようだ。
北海道函館市出身の方で長く京都郊外に住んでいて庭師を職業にしていると話してくれた。
当然お寺については大変詳しく清涼寺の駐車場が便利であると、車の混まない近道まで教えてくれた。
30分程度話しをしたあとお礼を言って別れ、近道を目指して出発したが山の中に入ると土砂崩れのためその近道が通行止めになっていた。
来た道を引き返し、昨日渋滞で苦労した道に戻ったが時間的にかなりのロスがあったので高速道路を使うことにした。
京都市内の渡月橋あたりは特に観光客が多く、車道にも人があふれ出てくる有様だ。
慎重に車を進め清涼寺の駐車場を目指したが、今度は道路が狭くなり対向車に注意を払っているうちに駐車場が視界から消えていった。
急いで地図をみるとこの先に大覚寺がある。「駐車場もあるように」と念じていると願いは叶うから面白い。
前段が長くなったがこれまでの偶然の重なりがこの後友人との奇跡的な再会を果たすのである。
大覚寺の歴史
大覚寺は、京都市右京区嵯峨にある、真言宗大覚寺派大本山の寺院。
山号を嵯峨山と称する。本尊は不動明王を中心とする五大明王、開基は嵯峨天皇である。
嵯峨天皇の離宮を寺に改めた皇室ゆかりの寺院である。
また、後宇多法皇がここで院政を行うなど、日本の政治史に深い関わりをもつ寺院である。
また、嵯峨天皇に始まるという華道嵯峨御流を今に伝える寺でもある。
嵯峨野の北東に位置するこの地には、平安時代初期に在位した嵯峨天皇が離宮を営んでいた。
嵯峨天皇の信任を得ていた空海が、離宮内に五大明王を安置する堂を建て、修法を行ったのが起源とされる。
嵯峨天皇が崩御してから30数年後の貞観18年(876年)、皇女の正子内親王(淳和天皇皇后)が離宮を寺に改めたのが大覚寺である。
淳和天皇の皇子(嵯峨天皇の孫)恒貞親王(恒寂(ごうじゃく)法親王、仁明天皇の廃太子)を開山(初代住職)とした。
鎌倉時代になると、亀山法皇や後宇多法皇が入寺し、ここで院政を行ったため嵯峨御所とも呼ばれた。
亀山法皇・後宇多法皇の系統は当寺にちなんで「大覚寺統」と呼ばれ、後深草天皇の系統の「持明院統」と交代で帝位についた(両統迭立)。
この両系統が対立したことが、後の南北朝分裂につながったことはよく知られる。
元中9年(1392年)、南北朝の和解が成立し、南朝最後の天皇である後亀山天皇から北朝の後小松天皇に「三種の神器」が引き継がれたのも、ここ大覚寺においてであった。
このように、皇室ゆかりの寺院であり、代々法親王が住職となった門跡寺院であるため、現在でも御所風の雰囲気がただよっている。御所跡地が国の史跡に指定されている。
表門の入口には大覚寺の歴史について書かれた案内板がある。
宸殿を右に見ながら、式台玄関から中に入る。
宸殿(重要文化財)
東福門院(後水尾天皇中宮)の旧殿を移築したものと伝える。
蔀戸(しとみど)を用いた寝殿造風の建物で、屋根は入母屋造、檜皮葺きとし、周囲に広縁をめぐらす。
「宸殿」は門跡寺院に特有の建物名で、「宸」は「皇帝」の意である。
内部は大きく4室に分かれ、中でも南側の「牡丹の間」の牡丹図と北側の「紅梅の間」の紅梅図の襖絵(ともに狩野山楽筆 展示物は複製)は名高い。
前庭には一面に白砂が敷き詰められ、右近の橘と左近の梅(左近の「桜」ではない)がある。
各建物への移動にはこの回廊を通ることになる。
このあたりでバッグに入れてあったスマホの振動を感じたので取り出してみると、先日別府で会った、大分県の友人から短時間に5・6回着信が入っている。
嫌な予感もあったので急ぎ電話の使用できる場所に移動して電話をかけてみると。
「おまえ、大覚寺にいるだろ」「いるけど、なんで知ってる?」
「駐車場で車を見た!」「ところで、おまえはどこにいるの?」「俺か、俺はいま大覚寺にいる!」「えっ?」
「女房と友人夫婦できている、後で会おう!」ということになった。
心経殿(有形文化財)
御影堂の北に建つ。大正14年(1925)建立の鉄筋コンクリート造の小規模な八角堂で、壁面は校倉造風である。
内部には嵯峨天皇、後光厳天皇、後花園天皇、後奈良天皇、正親町天皇、光格天皇の直筆の般若心経を収蔵し、薬師如来像を安置する。
内部は非公開で、開扉は60年に一度とされている。
大沢池(名勝)
大沢池は中国の洞庭湖を模して嵯峨天皇が築造したものといわれ、当時の唐風文化の面影を今に残す園地は池の北方約100メートルにある「名古曽の滝」とともに1923(大正12年)に国の文化財として名勝に指定されている。
いけばな嵯峨御流~その人を想い、華を捧ぐ~
嵯峨天皇に始まるという華道嵯峨御流を今に伝える寺。
平安の始め嵯峨天皇が菊ヶ島に咲く菊を、殿上に捧げたのが発祥と伝えられる。
1200年経った今でも嵯峨天皇の自然や草木に対する慈しみの精神が受け継がれている。
華道に関しては全くの無知で友人との待ち合わせに時間があったため、周囲を見てみると花が展示してあったので写したという感じであった。
美しいと感じていないと写さなかったと思うのできっと感じるものがあったのだろう。
1枚目と2枚目、3枚目と4枚目は同じ場所で撮っているので制作者には申し訳ないと思う。
玄関で友人と再会した。昼食を駐車場横の蕎麦屋で食べながら話しをする。
二人とも大覚寺へは来る予定がなく彼も私と同じように偶然訪れたようだ。偶然の重なりが奇跡のような再会を果たした。
観光地の蕎麦屋ということで余り期待はしていなかったが、ここの蕎麦屋はうまかったことを付け加えておく。
今回もまた友人にご馳走になった。友人については、7月8日(臼杵石仏)の記事に記載。
大覚寺はほとんどが撮影禁止ということで誤って写ってしまったという写真はあるが、少ないのはそのような理由。
撮影 平成25年5月25日
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