今、出発の刻(たびだちのとき)

車中泊によるきままな旅
<名所旧跡を訪ねる>

吉祥陀羅尼山 薬樹王院 瀧山寺(愛知県岡崎市滝町山籠)

2020年10月15日 | 神社・仏閣
訪問日 令和2年9月12日

吉祥陀羅尼山 薬樹王院 瀧山寺
「滝山東照宮」を目指してきたのだが、迷いながらも着いたのが「瀧山寺」の駐車場だった
駐車場を使用している関係で寺門から中に入り「宝物殿」に向かった



瀧山寺縁起によれば、朱鳥元年(686年)役行者が青木川の滝壺から薬師如来を拾い上げ、安置するために「吉祥寺」という一堂を建てたのに始まる



保安年間(1120〜24年)仏泉上人永救が、仏法興隆のためこの地に来住
荒廃した吉祥寺跡に物部氏の外護により本堂を造営した
境内には360もの寺院が建立され、官府の命によって寺名を「瀧山寺」と改めた



江戸時代には「青龍院・玉泉院・常心院・浄蓮院・観量院・密厳院」の六坊があった
現在「浄蓮院」のみが瀧山寺本坊として残っている



「宝物殿」
源頼朝の従兄弟にあたる寛伝上人は瀧山寺僧侶となり、縁故から頼朝の厚い信仰を得た
頼朝公没後には、菩提のため正治3年(1201年)頼朝公の3回忌にあたるこの年に惣持禅院を創建
本尊として頼朝公の御歯と御髪を納めた聖観音菩薩・梵天・帝釈天の三尊像を仏師、運慶・湛慶父子が造立した

宝物殿では、住職自ら説明してくれるのだが話の内容が実に面白い
運慶・湛慶父子作の重要文化財の聖観世音菩薩立像の説明には引き込まれてしまう



石碑「一隅を照らす此れ則ち国宝なり」
本堂へ向かう。石碑の右側にある(長く辛い)階段を上ることになる



案内板によると、重文の「三門」もあるが別の長く辛い階段を昇降することになる
急に膝に痛みを感じたので止めることにした



本堂(重要文化財)
貞応2年(1223年)には足利義氏が本堂立替を援助、泰氏・頼氏・家時・貞氏の歴代も所領や仏具を寄進
瀧山寺は足利氏の準菩提寺となっていった
室町時代には三代将軍義満の援助により本堂が造営された
現本堂は様式的に見て14世紀後半頃の建立と考えられている



江戸時代、比叡山天海僧正の命により住職となって入寺した亮盛上人は三代将軍家光に見いだされる
寛永18年(1641年)家光より朱印地を拝領
正保3年(1646年)には、家康誕生の地の守護である瀧山寺隣地に東照宮が設立された



冒頭に「滝山東照宮」を目指してきたのだが、ナビが案内したのが「瀧山寺」だったという理由がわかった
写真右側に「東照宮」の鳥居が写っている



外陣、内陣の間を格子で仕切る密教系の本堂
現在調査中ではあるが、堂内の仏像が「運慶・湛慶父子」作なら大変な事になると住職が話してくれたので堂内に入ってみる



「本尊 薬師如来座像」
肉眼では暗くてよく見えないがレンズを通すと内陣の様子がよく分かる
秘仏で50年に一度ご開帳と宝物殿で頂いた資料に記されているが、写真を見るとこの写真の仏像と同じだ



「日光菩薩」



「月光菩薩と十二神将」
堂内の仏像が「運慶・湛慶父子作なら左うちわだ」と冗談を交え話してくれた住職の笑顔が忘れられない
近いうちに結論が出るらしいが良い結果になることを願う



「毘沙門天立像」



「賓頭盧尊者」



「梵鐘」
瀧山寺は、寛文10年(1671年)と元禄10年(1697年)に徳川将軍家により修復を受けた
元禄10年時の集群綱吉による修復を跡づけるものが本品



銘文に「大檀主征夷大将軍源綱吉公」



パンフレット記載の伝教大師(最澄)遺言を最後に
 恨みをもって 恨みに報いれば 恨み止まず
 徳をもって 恨みに報いれば 恨み即ち尽く



撮影 令和2年9月12日

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