今、出発の刻(たびだちのとき)

車中泊によるきままな旅
<名所旧跡を訪ねる>

耆闍崛山 羅漢寺 その1(大分県中津市本耶馬渓町)

2013年07月05日 | 神社・仏閣
これまで九州にくるには航空機を利用してきたが、今日は関門トンネルを通って九州に入った。
初めての経験だったが、「あっという間」これが素直な感想だ。
九州でこれまで訪れたことのないのが大分県。日本にある石仏の多くが大分県に集中しているという。


羅漢寺の歴史
大化元年(645)にインドより渡来した法道仙人がこの地の霊峰に感動し、静座修禅して羅漢寺を開いた。
仙人がこの地を去る際に残した観世音像は、この寺の霊宝として大切に保存されている。
その後、後醍醐天皇の延元2年(1337)には、臨済宗祖の円龕昭覚(えんがんしょうかく)が訪れ、耆闍崛羅漢精舎と号した。これが山号の由来である。
さらに、中国の逆流建順(ぎゃくりゅうけんじゅん)がこの地を訪れた。
建順は昭覚と協力して、羅漢寺に十六羅漢、五百羅漢など3700余体の石造を建造し、延文5年(1360)に完成した。
足利義満も羅漢寺に帰依するようになり、この地を治めていた細川家からの支援もあった。
しかし、戦国時代、大友宗麟が領内寺院を邪宗として焼き払い、羅漢寺もほとんどの伽藍を焼失してしまった。
慶長5年(1600)に、長州深川大寧寺より曹洞宗の鉄村玄さく(てつそんげんさく)が入山し曹洞宗に改まった。
玄さくは、細川忠興の帰依や援助を受けて、羅漢寺の復興に努めた。本寺は、昭和18年に火災で焼失、現在の本堂は昭和44年に再建されたもの。


駐車場のすぐ近くに参道の入口がある。
行く方法は2つ、まっすぐ進むと徒歩20分の山道、左に折れるとリフト乗り場があり5分程度で頂上まで。




心も体もリフト乗り場に向かっていた。



リフトから降りると石仏が迎えてくれる。

      

千体地蔵
室町期、普覚禅師という高僧がこの千体地蔵と十王尊を刻み安置した。
石仏の数は1100体以上を数える。また、舞台が設置されたのは、万延元年(1860)で千体地蔵が安置されてから約500年後のこと。
道端の石仏を楽しみながら、しばらく進むと前方に風変わりな建物が見えてくる。




よく見るとこの建物の中に沢山の石仏がひしめきあっている。
説明によると約1000体の地蔵が安置されているという。自由に撮影できそうなので安心したが、写真を撮るには格子の部分が障害になる。
これまでもこのような悪条件を例の「のぞき見」スタイルで何度も乗り越えてきた。







十王尊
十王尊の後ろの狭い空間に約千体の小さな地蔵が安置されている。


      


     


 


      
 
恥ずかしい話だが、ここにある地蔵群だけで終わりだと勝手に考えていたので、1時間近く飽きずに観ていた。
帰ろうかと道を確かめるとまだ上に建物が見えてきた。山門らしきものがあるということはまだある。


山門
室町幕府の三大将軍足利義満により建立された。
扁額の「耆闍崛山」は羅漢寺の山号で、禅宗の黄檗の三筆の一人、即非和尚が寛文6年(1666)羅漢寺を参詣した際に書いたとされている。




五百羅漢
山門を入ると無漏窟があり、この中に、五百羅漢が安置されている。
延文四年(1359)逆流建順僧が、 昭覚禅師とともに、わずか1年で700余体の石像物を建造した。
無漏窟の中には、中央に釈迦如来坐像が安置され、両側にいろいろな顔の羅漢の石仏がある。
怒った顔、笑った顔、困った顔などさまざまな顔をしていて、家族や親類に似ている人がいると言われている。
また、いたるところに願い事を書いた「しゃもじ」が打ち付けられているのは、「しゃもじ」で願いをすくう(救う)と言われているからだ。




次回に続く

撮影 平成25年5月17日

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