○昭和55年4月3日(木)曇。
朝6:00に起こされた。若いから出来る、若いとはいいとだ。人間は、眠たい時には眠る様になっていると思う。
○昭和55年4月4日(金)雨。
○田君(宮医大の医学生、大分上野丘出身、現在九州保健大学の教授)がやってきた。まだ、患者さんが少ないので、勉強にならないと思う。自分の医療に対する至誠だけは、学んでもらえた様な気もする。
*これ以後、5月に固めてちょっとと、6月にもかためてちょっと書かれているだけで、12月の末まで、何も記載されていない。昭和56年元旦から書かれたものも、家でかなり捜したが、見当たらない。1年単位で、書いていた気もするのだが、記憶が定かでない。
昭和59年の1月1日から、5年活用実務日記を用いて、ちゃんと書かれている。
何故、そんなに長い間、ちゃんと書いていなかったのか、今から27年前のことなので、よく思い出せない。
兎に角、この間、人生でメチャクチャに最も忙しい時だった。ストレスも最高だったと思う。自分でも、よく過労死しなかったなあと思っている。統計を執ることだけは、何故か、ちゃんとしてきている。日記は後で書くことが多い為に、ついつい書かなくなってしまった感じである。
本当に、毎日が当直だった。深夜の3時~6時の間に、毎日の様に起こされた(深夜のこの一番きつい時間帯を自分は、ブラックタイムと呼んでいた)。深夜、小児科の救急がない時は、新生児・未熟児で、新生児・未熟児での急変がない時は、小児科の救急で。殆ど眠っていない状態で、それも、ずっとそれが続いた状態で、頑張っていた。笑うゆとりもなかった。朝の6時過ぎに寝ることも度々であった。まとまって睡眠時間が取れた時は、感謝していた。
就職してまもなく1.000g以下の未熟児が2人生まれ、大変な思いをした。残念なことに、2人共に後遺症が残り、私の方にも、大きな後遺症が残ってしまった。それ以外でも訴訟を2つも抱え、県の方からも呼ばれ、疲労困憊して、完全に参っていた。毎日が睡眠不足との闘いであった。
就職してまる3年間、大学からの応援は、2泊3日の新生児・未熟児セミナ一(新生児・未熟児の最新の治療)に行った時だけだった。まる3年して、1カ月に1回、土曜の午後から月曜の早朝まで、宮医大から来てもらえる様になった。その時、死んだ様に、家でずっと寝てばかりいた。
訴訟に苦しみ、睡眠不足に苦しみ、深夜も毎晩の様に起こされて、長女が深夜に起きて泣いていた。又、親しい人が手術をすることとなり、誰も世話が出来ない為、そんな忙しい中で1カ月間その人の乳飲み子を預かった。
毎日が命懸けの闘いだった。どうしてそんな状況に耐えられたのか、今でも、信じられない。若かったから、そして、人一倍理想に燃えていたからであろう。
朝6:00に起こされた。若いから出来る、若いとはいいとだ。人間は、眠たい時には眠る様になっていると思う。
○昭和55年4月4日(金)雨。
○田君(宮医大の医学生、大分上野丘出身、現在九州保健大学の教授)がやってきた。まだ、患者さんが少ないので、勉強にならないと思う。自分の医療に対する至誠だけは、学んでもらえた様な気もする。
*これ以後、5月に固めてちょっとと、6月にもかためてちょっと書かれているだけで、12月の末まで、何も記載されていない。昭和56年元旦から書かれたものも、家でかなり捜したが、見当たらない。1年単位で、書いていた気もするのだが、記憶が定かでない。
昭和59年の1月1日から、5年活用実務日記を用いて、ちゃんと書かれている。
何故、そんなに長い間、ちゃんと書いていなかったのか、今から27年前のことなので、よく思い出せない。
兎に角、この間、人生でメチャクチャに最も忙しい時だった。ストレスも最高だったと思う。自分でも、よく過労死しなかったなあと思っている。統計を執ることだけは、何故か、ちゃんとしてきている。日記は後で書くことが多い為に、ついつい書かなくなってしまった感じである。
本当に、毎日が当直だった。深夜の3時~6時の間に、毎日の様に起こされた(深夜のこの一番きつい時間帯を自分は、ブラックタイムと呼んでいた)。深夜、小児科の救急がない時は、新生児・未熟児で、新生児・未熟児での急変がない時は、小児科の救急で。殆ど眠っていない状態で、それも、ずっとそれが続いた状態で、頑張っていた。笑うゆとりもなかった。朝の6時過ぎに寝ることも度々であった。まとまって睡眠時間が取れた時は、感謝していた。
就職してまもなく1.000g以下の未熟児が2人生まれ、大変な思いをした。残念なことに、2人共に後遺症が残り、私の方にも、大きな後遺症が残ってしまった。それ以外でも訴訟を2つも抱え、県の方からも呼ばれ、疲労困憊して、完全に参っていた。毎日が睡眠不足との闘いであった。
就職してまる3年間、大学からの応援は、2泊3日の新生児・未熟児セミナ一(新生児・未熟児の最新の治療)に行った時だけだった。まる3年して、1カ月に1回、土曜の午後から月曜の早朝まで、宮医大から来てもらえる様になった。その時、死んだ様に、家でずっと寝てばかりいた。
訴訟に苦しみ、睡眠不足に苦しみ、深夜も毎晩の様に起こされて、長女が深夜に起きて泣いていた。又、親しい人が手術をすることとなり、誰も世話が出来ない為、そんな忙しい中で1カ月間その人の乳飲み子を預かった。
毎日が命懸けの闘いだった。どうしてそんな状況に耐えられたのか、今でも、信じられない。若かったから、そして、人一倍理想に燃えていたからであろう。