日本の心・さいき

日本の文化を通じて、世界平和を実現させましょう。

還暦

2007-09-08 08:53:59 | Weblog
 数えで行くと、来年、60歳で還暦になる。周りの人の話だと、還暦は、満でなく数えで行くとのこと。大学病院で勤務していた時に、教授が還暦なった時に、宮崎観光ホテルで医局員皆でお祝いした。教授が赤いちゃんちゃんこを着ていた。こんな感じで自分が還暦を迎えること何て、その時はずっとずっと先のことだと思っていた。しかし、もう目の前にあると思うと、それだけ月日が流れてしまったのかと思って何とも言えない気持ちになる。

 自分の人生は、ほぼ10年周期で回っている。
・20代(2年浪人して)、6年間の医学生、4年間の県病と大学病院。医者として腕を磨く為に、真剣に勉強した。 
・30代(30歳で佐伯の救急病院に就職)の10年は、救急病院で思いっ切り仕事が出来た。
・40代(41歳で開業)は、開業生活。
・50代は、3つの病院を転々としている。(途中で1年間、無職)
・そして、60代に入ろうとしている。
 60代には、何をするのか?(したい事が多くて、夢一杯あるのだが)
 まず、今後必要なものは、体力、次に意欲と能力、そして、金力、更にどうしても必要なのは、感性力だと思っている。
 歳を取れば取るほど落ちてくるのは、まず体力、そして、感性力、意欲と能力、金力の順だと思う。
 それなりに気を付けていても、いつ体の不調が深刻になってくるのか分からない。しまった、あの時にしていれば良かったのにと思いたくない。

 現在、58歳で、先のことを考えて取り敢えず努力していることは、語学力(主としてNHKのテレビ講座を中心に)、金力(子どもが成人したので、やっと少しずつ貯まっている)、体力維持(野菜中心の食事を殆ど毎日自分で工夫して作っている)、教材作成(パワ一ポイントで小児科の講義用のスライドを着実に作成している)、本出版準備(為になるかも知れない本を300まで行った所で出版できればいいなあと思っている)の5つ。

 今までむちゃくちゃに生きてきたが、もう、無茶をする気はない。高い地位も要らない。年金もちゃんと掛けてきているので、今後の手取りが普通の人並み以下でも充分に満足出来る。体を壊してまで仕事をする気はもうとうない(そうでなくても、現在、いろんな病気と共存している。本態性高血圧症、高脂血症、逆流性食道炎、流行性角結膜炎後遺症、50肩、消化器があまり丈夫でない)。
 60歳までは、今の調子でまだ頑張るつもりであるが、60歳からは、年齢に見合った分に今まで無理してきた分を差し引いて仕事をしようと思っている。
 そして、何よりも、身近な家族(特に母と家内)を大切にして生きて行こうと思っている。
 家内から言われました、「いつも何かを始める時には、それを止める時までちゃんと考えている。見ていると、今までずっとそれで来ている」と。
 そう言われば、そうかも知れない。
 小さい時から、目標や計画表を大きく書いて、机の前に張っていつも見ていた。大学に行っても、そして、今もその習慣を少なからず維持しているかな。
 昔と比べると、自分の価値観がゆっくりではあるが、確実に変化し続けており、それに伴って、目標もそれなりに変更を余儀なくされている。

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為になるかも知れない本(その203)

2007-09-08 08:00:55 | Weblog
○昭和55年7月~昭和58年12月
 この間、記載がないが、いろんな出来事があり過ぎる位にあった。
 県南に唯一の小児科専門医の○○先生が体を壊されて、しばらくの間、そこでの診療を完全に中止した為に、その間、県南では、小児科を専門にする医師は、自分一人になってしまった。
 医師会の准看護学校の講義(14回)、健康保険病院の看護専門学校の講義(20回)もし、医師会員として院外の予防接種や健診もし、しばしば学会に発表し、本当に1日も休まず、真面目に毎日救急をした。
 運動を全くしなかった。体重がどんどん増えて行き、血圧が次第に上がって行き、いつも体がだらしくて、体がどんどんむしばまれていると思っていた。(大学を去る時に、既に、中性脂肪が高値で、HDLが低値であった。)
 患者さんは、どんどん増えて行き、待ち時間が長いとの苦情が強くなった為に、順番取りが早朝から始まり、朝の6時00分に30人程の列が出来ていた。
 朝外来に行くと、既に80人程の診察券が並んでいた。
 「話さない、目を見ない、笑わない」新しいタイプの小児科医の姿がそこにあった。いつもうつろな目をして、話す元気がなかった。初対面の人にとっては、自分の第一印象は、かなり怖かった様である。気が短くて直ぐに怒る医者と、親御さんの間では言われていた様であった。
 カルテの記載も自分でも読めない感じで書いていて、その後に引き継いだ医師は、その解読にかなり苦労されたことと同情申し上げます。
 昭和57年11月に家を建ててから、時間外に病院から呼ばれることが少し少なくなった。しかし、泊まる場所の殆どは、病院の小児科の病棟の隣の部長室であった(患者さんの泣き声が深夜は筒抜けだった)。どんな時にも、自分との連絡がいつでも出来る様にしていた。
 いつ過労死しても不思議でない状態で、病院側も自分が倒れたらどうしようかと心配していた様である。
 スタッフが年ごとに次第に慣れてきて、それが唯一の救いだった。病院からは、自分のしたい様に医療をさせてもらえ、又、自分の医療の仕方をスタッフから絶対的に信じてもらえた(西田病院を去る時、新生児・未熟児の状態が悪い時、困った時はいつでも相談の電話いいよと言っていたので、開業後しばらくは、時々電話が掛かったりもしていた)。
 ナ一スには、聴診器の扱い方から、新生児を含む小児の検査の見方、レントゲンの見方、レスピレ一タ一の扱い方まで、研修医なみにしっかりと覚えてもらった。それが出来たからこそ、1人の医師でも、ギリギリの状態で長く出来たと思われる(感謝感謝感謝)。
*写真は、西田病院小児科9:00前の診察前にずらっと並んだ診察券。

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