日本の心・さいき

日本の文化を通じて、世界平和を実現させましょう。

似顔絵

2007-09-11 11:20:00 | Weblog
 今年、病院の隣の看護専門学校を卒業した生徒の中に、似顔絵を描く生徒がいた。現在、神奈川で勤務しているとのことで、夏休みが今取れたのを利用して、わざわざ看護学校まで来て、お礼にと渡してくれたのが、以下の9人の似顔絵。
 医者は、私と産婦人科の先生しか入っていない。よほど、教えられた者にとって印象深かったのか、それとも、教育熱心な先生って感じに思われたのかな?(私としては、大変嬉しかった)
 幸いに、この年の卒業生38名は、全員合格した。私が来てここでは初めての生徒で、小児科100分の20回分の内、後の16回分をした。それも、2学期だけで集中講義的にした。いつものスタイルで、講義の終わりに試験を毎回し、国家試験前には、特訓をした(診療で忙しい中で、とても疲れたが)。
 自分の講義がどう思われているのか、とても気になる所であるが、講義が将来役に立っていないとなると、何の為の講義かわからなくなる。
 知識以外に、いろんなことも教えるべきだと思っている。ある生徒は、国家試験に関係ない脱線の話ばかりをしっかりと覚えていた様であったが、それでもいいと思っている。
 自分のことを考えても、講師が言ったこと、殆ど覚えていない。しかし、その講師の講義に対する熱心さとか、脱線話、今でも思い出す。
 教育は、教える側が、いい講義をしようと思っていないと、又、受ける側も、しっかりと覚えようと思っていないと、うまく行かない。お互いの気のコミュニケ一ションが大切と思っている。


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小児科って

2007-09-11 07:52:16 | Weblog
小児科って、一番何で悩んでいるかと言うと、実は、親御さんとのやりとり。子どもだけを診て、子どもだけを治していれば、それで事足れりと思ったら大間違い。小児科を目指したが、途中で他の科に変更した人の多くは、親御さんとのトラブルが少なからずあると思う。
 ある由緒ある病院では、親と子を話して、治療をしているとのこと。子が親から話されたことの精神的ダメ一ジは大きいらしく、後のフォロ一で難儀していることもあるとか。
 いろんな親御さんがいる。学校でも、モンスタ一的親御さんで悩んでいる教師が多いと聞く。今は、権利主義が強くて、そんな時代なのかなあとも思う。それはそれで又反省して、新たな展開が生まれると期待しているが。
 もう、この歳になると、いろんな親御さんのケ一スを経験しているので、それなりに対処の仕方を心得ている。
 それよりもカッとなって、自分の血圧が上がることを考えると、それはそれで認めて生きる方が賢明かなと思う。親の気質を治すことは土台出来ない訳で、開き直って接するしかない。昔は、理不尽な親御さんと喧嘩したこともあったが、今は、もうそんな元気もない。
 小児科医の一番の生き甲斐って、やはり子どもが元気になってくれることかなあ。子どもの場合、急変して悪くなるのも早いが、又、良くなるのも早い。車であれば、新車で、一カ所を治せば直ぐに動き出す。中古は大変だろうなあと内科の先生に同情する。子どもの病状が思った以上に良くなってくれると、こちらも子どもからパワ一をもらうことが出来る。症状がひどかった子どもであればある程。しかし、子どもの死は、とても悲しい。今まで、沢山の病気の子ども達が自分にいろんな人生を教えてきてくれている。(感謝感謝感謝)


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為になるかも知れない本(その206)

2007-09-11 07:35:59 | Weblog
○昭和59年1月25日(水)晴。
 朝1:30にけいれん重積が来た。大変だった。22:30にもけいれんで来た。けいれんが24時間で6人も来るなんて、ここに来て初めてだ。眠たかった。しかし、午後がこの病院、休診なので助かる(その代わりに、土曜の午後は17:00まであり)。もう、○海の看護学校の講義がないので、その分、楽になっている。講義の準備も大変なのだ(いつも毎回、90分講義の終了後に試験をしていて、まとめの試験はしていなかった)。
○昭和59年1月26日(木)晴。
 ○○病院で熱冷ましの座薬をもらっていた(エッ、何で!)1カ月の子、熱がなかなか引かないので、血沈の検査をしたら、何と1時間値が130もあった(白血球は、さほど多くないのに)。直ぐに敗血症か髄膜炎の疑いで県病に送った。ケルニッヒもないし、はっきりとした項部強直らしきものもない(後で、考えて見ると、足を額に向けて上げた時、少しきつそうな顔をしていた)。よく飲み、嘔吐もない、ウトウトもない、もちろんけいれんもないし、ピリピリもない。大泉門もどう見ても膨隆していない(県病の先生も同じことを言われていた)。しかし、県病での髄液の結果は、細菌性髄膜炎であった(その後、菌は、髄膜炎菌とのことであった。その後も、けいれんなく、大泉門も膨隆することなく、3週間近く入院した後に、元気に退院して、親御さんから深く感謝された)。
○昭和59年1月28日(土)晴。
 朝、2時頃寝た(昨日の22:30に来た子、来院時、既に死亡していて大変だった)。今年になって今日が一番多い。240人近く来た。昨年の最高は、265人だったかなあ。200人以上だと、きつい。仕事が外来だけでなく、病棟もあり、ベビ一もあるからだ。
○昭和59年1月30日(月)雨。
 250人近く来た。今年で一番多い。医者の第一条件は、体力だなあ。思うに、入院している患者さんの親御さん、皆、ニコニコしているなあ。何故かなあ、(自分の診療の仕方を信じて)安心し切っているのかなあ。


 次女が昭和58年6月2日に産まれた。骨盤位で、手術場で院長が帝王切開の為の手洗いをしている時に、産まれた。私がついていた。骨盤位の為、顔がまともでなくて心配したが、その後は、順調に育ってくれた。(写真は、炉でお茶の練習をしている次女)

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