日本の心・さいき

日本の文化を通じて、世界平和を実現させましょう。

清渓川

2007-09-06 16:07:41 | Weblog
ソウル市のど真ん中を、清渓川(チョンゲチョン)なる川が走っている。それが市民の憩いの場ともなり、自然環境を考える上でも、世界中から注目を浴びている。
 1990年代の韓国の高度成長期以降、韓国都市部では環境破壊による汚染や公害が深刻であった。ソウルには長年に渡って地下で眠っていた清渓川(チョンゲチョン)という川があった。それが、2005年10月に約30年の時を経てソウル中心部に蘇ったのである。今や清渓川はソウルの新しい憩いの場として脚光を集めている。
川に添って風の流れが出来、ヒ一トアイランド現象軽減効果もあり、水辺の多くの生き物も住み着いている。ソウル以外でも、この成功例をもっともっと勧めようとの動きが加速化しつつある。人間が壊した自然を又人間の力で復活させたのである。(素晴らしい、大拍手)

 2005年10月の清渓川復元当時はその姿を一目見ようと各地から多くの人が一度に訪れ、川沿いの遊歩道には立ち入りの制限がされた程。現在では、落ち着きを取り戻した清渓川ではあるが、それでも、週末や休日ともなると家族連れやカップルなど多くの人で賑わっている。ソウルっ子達からも運動や憩い、娯楽の場として親しまれている清渓川であるが、復元を遂げるまでには苦い歴史もがあった。
 もともと、清渓川はソウル中心部を流れる全長約8Kmの河川として、ソウルを南北に分ける川・漢江(ハンガン)と並んで親しまれて来た。古くは李氏朝鮮時代より、商業や文化の要所として栄えてきたのだが、1960年以降、生活排水による水質汚染などが深刻となり、清渓川周辺の環境も主要道路や高層ビルの建設ラッシュなどで大きく変化した。このことから、1970年代後半には、道路の拡張などにも伴い、清渓川は地中に埋められることとなり、その姿を地上から消してしまった。
 急激な経済成長や環境の変化によって、地下に埋められ、忘れられたかのように思われた清渓川だったが、結局、2002年のソウル市長選で「清渓川の復元」という公約を掲げて当選したイ・ミョンパク市長の意向により清渓川の復元と整備が実現したという訳です。一度は地中に埋められた河川を再び地上に蘇らせるという前例を見ない工事は注目を集め、市民に見守られながら約3年をかけて復元を果たした。
 清渓川には全部で22の橋が架けられている。このうち12の橋は歩行者専用となっているので、車の心配もなく安心。今回の復元では、約5.8Kmの部分が整備・復元されたが、ソウル市では、国内外の観光客にも都会でゆっくりと散策ができるコースが整備されていたり、夕刻には橋が美しくライトアップされるなど、清渓川の良さを知ってもらおうとPRに務めている。(韓国観光公社より引用)

*私は、今までに4回韓国に行っているが、まだ、ソウルには行ったことがない。来年かさ来年には、是が非でも、ソウルに行って、この蘇った清渓川を見ようと思う。

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朝だけ、2通り

2007-09-06 06:43:51 | Weblog
 朝の挨拶は、「おはよう」と「おはようございます」の二通りあるのだが、昼は、「こんにちは」、夜は、「こんばんは」、別れる時は、「さようなら」と、一通りの言い方しかない。何故か、ずっと不思議に思っていた。
 NHKの番組で、その理由を説明していた。
 朝の言葉は、相手が朝早く出て来たことの対しての声掛けの言葉が由来とのことで、早いですねから、丁寧なおが付いて、「おはよう」と「おはようございます」が出来たらしい。
 ところが、「こんにちは」、「こんばんは」、「さようなら」は、文章の一部から生まれたもの。
 今日は、ご機嫌いかがですか?から、初めだけをとって、「こんにちは」になっている。だから、おこんにちはは、明らかにおかしい言い方になる。
 今晩は、穏やかですねなど言い方から、「こんばんは」が生まれている。
 「さようなら」も、左様ならば、これにて失礼との言い方から、「さようなら」の言い方が出来ている。

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為になるかも知れない本(その201)

2007-09-06 06:39:25 | Weblog
○昭和55年5月16日(金)曇。
 17人来た。なかなか増えない。○○先生の患者さんは来なくていいと思うが、もっと来ないかなあ。来年の今頃はどうしているかなあ?
○昭和55年5月17日(土)晴。
 17人来た。相変わらず少ない。どうして増えないのかなあ?いい噂ってなかなか広がらないのかなあ。一人一人しっかり診て行くしかないなあ。
○昭和55年5月18日(日)晴。
 10人来た。○○先生が、大分で総会があって不在だったからかなあ?○海病院の緒方院長先生が言われていたなあ、「○○先生は、佐伯の人は、神様と思っている」と。この世の中は、実績しかないなあ。
○昭和55年5月19日(月)晴。
 月曜というのに、17人しか来なかった。月曜が一番多いはずなのに。想像してたのと全く違って、増えない。月給泥棒って感じだなあ。本当に、今から増えるのかなあ。
○昭和55年5月21日(水)晴。
 雨のせいか、時間内は、わずか6人であった。警察署に行って自動車の免許証の更新に行った。視力検査、バッチリであった。後は、6月4日に又行ってもらうだけだ。しかし、このまま僕は車を買うことなく自転車で過ごすのだろうなあ。いきなり自動車を運転しても、事故を起こすなあ。(自動車は、今も買うことなく、免許証の更新だけしてきています)
○昭和55年5月22日(木)晴。
 26人来た。2カ月経っているので、20人はいないと恥ずかしいよ、全く。心臓の患者さんも、ぜんぜん集まらない。一回来て、又、かかりつけに戻っている人も結構多い様だ。やはり、若いって言うのは、信用がないのだなあ。
○昭和55年5月25日(日)晴。
 9人来た。このままでは西田の小児科は、最悪な場合は、潰れてしまうかも知れないなあ。まあ、考え方によっては、新生児・未熟児を中心にすればいい訳だから、初めはこんなものかなあ。しかし、これでは採算合わないなあ。
○昭和55年5月27日(火)晴。
 何と33人も来た。1日中、とても忙しかった。これからは、こんなことが続くのかなあ。化膿性髄膜炎が入院した(熱性けいれんとのことで津久見の開業医から紹介されて来て、外来で別の患者さんを診ながら、その子を診察台に置いて診察の傍らに診る感じなっていたが、その子の息が止まりかけて、慌ててしまった)。
*これ以後、しばらく日記に記載がない。初めの3カ月は、数自体は、さほど多くなかったが、それなりに忙しかった。特に、新生児・未熟児で(特に慣れないスタッフの教育で)難儀していた。

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