日本の心・さいき

日本の文化を通じて、世界平和を実現させましょう。

為になるかも知れない本(その213)

2007-09-18 08:07:17 | Weblog
○昭和59年5月9日(水)晴。
 半ドンで100人ちょっとだった。以前と比べて少なくなった。今から少し暇になってくれるかなあ。いつも、朝の7:30から、病棟回診をすることにした。きついけど、朝、能率良く仕事をした方がかえって楽なのだ。○一○の○○嬢が、(付き合っている)男性と別れますと言いに来た。涙を一杯流していた(彼女は、充分に任せられる極めて優秀な○一○だったが、それと男性を見抜く目は全く別。てっきり私に言って来た様にその時から別れていたと思っていたのだが、再びよりを戻して一緒になって結婚してしまった。子どもが出来た後にしばらくして別れてしまった・・・)。

*男女のトラブルで、何故か私に独身の女性からよく相談があった。私の言い方は常に同じで、「ものには、順序がある。恋愛して、じっくりと相手との相性を調べてから親とも相談して結婚し、そして出産、これが原則。恋愛病は病気だから、極めて治療が難しい。10人の内7~8人が辞めた方がいいよと言っている時には、そうした方がいい。時間と距離を置いて、冷静になる必要がある」と説明していた。付き合っている男性を先生に見て欲しいと言われることが多く、結婚前に会って意見を言ってあげることが多かった。結婚式での祝辞も、かなりの数している(今までに、残念なことに、その内の3組も離婚しているが・・・)。

○昭和59年9月12日(土)晴。
 (10日に生まれて真剣に診ていた)RDSの子、左の気胸を起こして、死亡してしまった。気胸を起こす前に、助かるかも知れない様なことを親御さんに言っていたので、バツが悪かった。圧をも少し低くしていたら、助かっていたかも知れないなあ。ちょっとの変化も見逃してはいない。ホッと医者がした時が危ない。気を抜いた時が危ない。泊まって深夜もよく診ておくべきだったかなあ。忙し過ぎるでは、弁解できない。
○昭和59年9月14日(月)晴。
 今日は、200人程診た。休んだのに、スピ一ドが落ちている。(土曜から月の早朝まで、宮医大から○田先生が代診で来てくれていて)○田先生、かなり何回も起こされていた。小児救急を1人でやっている訳だから、土台、無理な話だ。事故が起きない方が不思議だ。土の夕方から月の早朝まで常にいつも来てもらえれば、後、1~2年は、1人でも何とか出来そうな気もする。理事長さんが元気な内は、そして、家と土地の借金返済の目途が立つまでは、頑張らないと。
○昭和59年9月16日(水)雨。
 ○○ベビ一、徐脈が心配(70台)。准看の講義が6月から始まる。その準備も必要。月報の原稿の催促が来た。明日か明後日には、書き上げないといけない。朝、7:30から病棟を診るのが習慣化されてしまった感じだ。自分は、朝型だ。


  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

為になるかも知れない本(その212)

2007-09-17 07:41:54 | Weblog
○昭和59年4月20日(金)晴。
 朝の1:30までかかって3月の小児科の統計を執り上げ(しばらくして、家内がいつもしてくれる様になっていた)、(月報係の)○木さんに原稿を出した。大分地方会の3回に常に発表して行って、県医学会の雑誌に投稿していけばいいなあ。(西田病院にいた時、しばしば学会発表し、論文も少し書いていた)
○昭和59年4月23日(月)晴。
 喉が痛くて、きつかった。インフルエンザかなあ。こんな時、1人が如何に心細いか、誰にも分かってもらいそうにない。200人以上の外来と30人の入院と、それに時間外診療、それを1人でやり続けるなんて、土台、無茶だ。いつかは、体がボロボロになってしまうだろう。そうなる前にどうかして手を打たないといけないなあ。
○昭和59年4月28日(土)雨。
 281人来た。スピ一ドが落ちている。喉が痛い。自分の体が病気になるととても心配する癖に、元気になるともう心配したこと忘れてむちゃくちゃに働いている。この繰り返しだなあ。
○昭和59年5月1日(火)晴。
 午前中に150人診て、それから乳児健診を診て、210人程診た。喉の痛みが朝たいしたことなかったが、次第に痛くなってきて、夕方又少し柔らいだ。早く健康な体に戻りたい。
○昭和59年5月2日(水)晴。
 12:00に大分医大の○○先生に電話して、バイトの件を頼んだ。そして、来週の火曜日に事務の○○さんに行ってもううことにした。どうなることやら。
○昭和59年5月4日(金)晴。
 風邪が嘘の様に治った。朝起きても喉がちょっと痛いだけなのだ。6:00に目を覚まして、7:30から病棟30人以上を診て、午前中で150人診て、13:00前に終わった。午後は、少なくても100人は診たと思う。自分でもすごい量だと思う。
○昭和59年5月6日(日)雨。
 (昨日から家族で鹿児島に来て)遅く寝、朝早く起きた。頭が痛かった。(家内の弟の)結婚式で、ミ一コが、「キャンディ一キャンディ一」を歌った。(鶴丸高校の時の同級生で)鹿児島大学の医学部に行っている人が4人も来ていた。いい結婚式だったなあ。
○昭和59年5月7日(月)晴。
 朝6:00起き、ラジオ体操をして、7:30から病棟回診をして、8:30前から外来を始めた。昼に少し眠り、夕方18:00に家に帰り、ハングル語を少し(長女と)勉強して、夜、又、診療。220人は診たと思う。少し眠たかった。午前中の方が能率が上がる感じだ。


  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

マスコミの報道の死角

2007-09-16 18:09:20 | Weblog
 小児救急の整備62%止まり 医師不足で目標困難に 乳児死亡率は地域差2倍 厚労相に改善勧告
(平成19年9月12日の共同通信社の記事より)
 入院が必要な小児救急患者に対する24時間対応の医療体制の整備率が昨年9月現在で、全国396地区の小児救急医療圏の62%に当たる245地区にとどまっていることが総務省の行政評価で分かり、増田寛也総務相は12日、舛添要一厚生労働相に原因の分析や新たな対策を検討するよう改善を勧告した。小児医療に対する行政評価は初めて。
 総務省が実施した都道府県の担当者や医師へのアンケートでは、7割が原因について「小児科医が足りない」と回答。構造的な医師不足を受け、同省は「平成21年度末までに整備率100%を目指すとした政府の子ども・子育て応援プランの目標の達成は困難」と指摘している。
 今回の行政評価ではさらに、平成17年の乳児の出生1.000人当たりの死亡数に、最大の滋賀県(3.5人)と最小の佐賀県(1.7人)で2倍の開きがあり、乳児と新生児ともに高い死亡率が栃木など8県で常態化するなど、小児医療対策に大きな地域差が生じている実態も浮き彫りになった。
 総務省は平成17年12月からことし9月まで、厚労省や自治体などを調査。その結果、396地区のうち151地区の小児救急医療圏で体制が未整備だった。また整備済みとされていた地区でも、35地区で24時間対応ができず診療の空白時間帯があることが判明。同省は「実際の整備率は62%を下回る」と推定している。
 また乳児と新生児の死亡率が高いとされた8県は、平成17年まで過去10年間の平均死亡率が全国平均を上回るなど、他の都道府県より際立っていた。このうち栃木、福井、福岡、長崎の4県では「研究手法が分からない」などの理由で原因分析も行っていなかった。
 これを受け総務省は厚労省に対し、原因分析や死亡率の改善策の検討も求めた。


 この記事を一般の人が見れば、見た人の多くは、不安に思うに違いない。小児科医が足りない、産科医が足りないと叫ぶばかりで、行政側は、何故そうなっているのかをしっかりと把握しようとしていない。
 小児科医のいる病院の小児科医は、休みも殆どない感じで拘束されて働いている。拉致と言った方がいいかも知れない。労働基準法など、どこ吹く風って感じだ。
 佐賀県と滋賀県で、2倍の差がある何て非常識な論評を出している。私に言わせると、たったそれだけ、今は、スゴイなあとなる。以前は、もっともっと差があった。
 その国の医療水準を示すと思われる、新生児死亡率、乳児死亡率、そして、周産期死亡率は、文字通り、日本は、世界一だ。正に、3冠王(そして、平均寿命にしても、トップクラスだ)。しかし、その裏には、スタッフや病院側の涙ぐましい努力があることを忘れてはいけない。
 小児科の入院の7割は、国公立だ。何故なら、個人は、採算が合わなくして医療が出来ないからだ。入院設備を持った場合、年齢が低ければ低い程、救急を整備しようとすればする程、採算が合わなくなる。
 私が小児科医になった時、部長から、「小児科医には、休みはないと思え。他の科と違って、お金儲けとは無縁の科。それで嫌なら、出来るだけ早く他の科に移った方がいい」と言われた。病院勤務の大部分の小児科医は、親御さんとのトラブルに耐え、病院側に売り上げの少ないことを気にしながら、急変する自分の患者と時間外も向き合っている。かと言って、その分、お金をもらっている訳ではない。
 どんなに日本の小児科医や産科医が頑張っても、賞賛されることはなく、何かあれば裁判沙汰になる時代だ。これ以上、今いる病院勤務の小児科医や産科医に、何をせよと言うのか。


  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

為になるかも知れない本(その211)

2007-09-16 07:30:12 | Weblog
○昭和59年4月2日(月)晴。
 学会が終わって(西田病院での統計をよく発表していた)、風邪気味になってきつかった。頭がとても痛くて、鼻水が止まらない。それでも、220人以上頑張って診た。1人では無理だなあと思う。中津国立病院でも3人もいる。これ以上多くなると、患者サ一ビスが確実に落ちるなあ。
○昭和59年4月5日(木)雨。
 体の調子が少し良くなった。今日は、大分医大に2人送った。ダウン症候群の○○○ちゃん、経過は良くないと思う。脳腫瘍の子も、どうなるかなあ?送れる所があるから1人でも何とか出来る。死ぬ運命にある子は、どこでどう頑張ったって死んでしまう。診療中にトイレに行きたくなったが、待っている人が多いと本当に困ってしまう。一日一日があっと言う間に過ぎてしまう。
○昭和59年4月6日(金)雨。
 180人前後来た。副鼻腔炎を起こしているみたいだ。体がだらしい。月報の原稿を書かないといけない。医師は、患者さんの為には、常にベストコンディションでないといけないと思うのだが、とてもこの状態では無理だ。毎週、土・日に、大分医大と宮医大から常に来てもらわないと、本当に行き着いてしまうなあ。
○昭和59年4月8日(日)晴。
 佐伯春祭りと言うのに、家でゆっくり休んで、グッスリ眠った。こんなこと、久し振りだなあ。これも○○先生(代診で土曜の夕方から月曜の6時まで来てくれていた)のお陰だ。ハングル語を勉強した。NHKの教育テレビで語学番組でいいのが一杯あるなあ。人間って、どうして新しいことを勉強しようとするのかなあ。自分でもよく分からない。
○昭和59年4月9日(月)雨。
 体の調子、まあまあだった。200人ちょっと来た。まだ、しばらく少なくならない感じだなあ。ハングル語、文字が面白い。順番も日本語と同じだ。もっともっと勉強したいなあ。
○昭和59年4月15日(日)晴。
 昨日は、夜遅くまで働いて、今日も遅くまで働いた。忙しい日だった。きついが、代診の人がいないから仕方ない。毎日忙しく働いて、それに、土・日も平日ほどではないが、それなりに働くというのは、人間のリズムからしたら無理な話だ。他の科の先生で、自分ほど休みもこれ程までに一生懸命に仕事をしている人はいない(しかし、売り上げは、小児科は、下から常に2番目)。
○昭和59年4月16日(月)晴。
 頭が痛い。病気が完治していないせいか、睡眠不足のせいか、どちからのせいだと思う。家で寝ていてもいつ起こされるか分からないので、不安であまりよく眠れていない。実際、1人で毎日深夜もしているのだ。この状態をどうかしないといけないと思いながらも、ズルズルになっている。宮医大か大分医大かどちらから、もう1人常勤で来てもらわないともう出来ないなあ。

  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

リファイン建築

2007-09-15 18:14:52 | Weblog
 平成19年9月16日(日)NHK教育テレビ、19:30~19:55の25分間、私の親戚(母の妹の長男で、私よりも1歳上の団塊の世代)の青木茂が、「ビジネス未来人」で、出演します。興味のある方、是非、見て下さい。私の自宅も、彼から設計してもらっています。

以下、NHKの内容より。

シリーズ 古いものこそ価値がある
「建物生かして地域を元気に」

 福岡県にある、地域の交流施設。洗練されたデザインが特徴です。実はこの建物、以前は、古ぼけた福祉施設でした。それが、地域の憩いの場として生まれ変わったのです。
 こうした古い建物の再生を手がけるのは、建築家の青木茂(あおき・しげる)さんです。青木さんは、建物を生かし尽くす技術を、20年にわたり磨いてきました。そして、それぞれの地域に合ったユニークな建物を、次々とつくりだしています。

http://www.aokou.jp/

*当時、彼の言ったいろんな言葉を覚えています。
 「どう造るか、貴方に全て任せます。いくらお金が掛かってもいいです、何て、言ってもらえることが一度でもあればいいなあと思っているが・・・」。
 依頼を受けて設計する時、相手の造りたいイメージではいつか困ることが起きる・・・で、それでは間違っていると言うことを話して悟らせるのに、一番のエネルギーを使う。
 生活様式がどんどん変わって行くので、今いいと思っていても、時代にそぐわなくなるので、それなりに変えて造って行くしかない。
 本物を造るには、それなりに、自分に時間と労力が要る。生活に追われることなく、年に数件しか手掛けない、しかし、造ったものが、それなりにいい評価を受ける、そんな生活に憧れる。
 ・・・などなど。
(写真は、放映の内容と全く関係ありません。私の自宅で、建てた直後の当時のもの)


  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

品格の高いKドクタ一

2007-09-15 11:59:46 | Weblog
今でも、品格ある人として、いつも思い出しています。
 そのドクタ一は、大学の心臓外科のK教授。仲人を頼むのに医局員がその教授にどれだけお礼をすればいいのか、悩んでいた(助教授から教授になられたばかりであった)。で、周辺にさぐりを入れて聞いてみた。30万円とのことで、それを結婚式後にその教授に渡した。教授は、とてもとても恐縮して、15万円返してきた。
 私は、この教授(当時助教授)から、沢山のことを学んだ。朝は早くから来られ、夜は、病棟で遅くまで医局員に、いろいろ指導されていた。論文も、臨床的に直ぐに役に立つ感じの内容のものばかり。
 私は、K先生のアドバイスで、心カテを切開法から穿刺法にすることが出来る様なった。又、(小児科医による)心カテの検査の時に、K先生、忙しいはずなのに、心カテ室に常に顔を出していた。
 たまたま年の暮れ、私とK先生が、沢山の医学生に囲まれた(その学年の忘年会であった様だ)。で、医学生から、スナックに入ろうと誘われた。私の頭は、これだけの人の飲み代を払うのにどれだけいるのかとそのことで頭が一杯であった。
 迷っていた。その時であった。K先生は、「せっかくだから、田原先生、皆に一杯ずつおごって、それで早く出ましょう」と言われた。で、学生が勧めるスナックに入って、K先生のお話があって(どんな内容だったのか、今でも、お金のことで頭が一杯だったので、全く思い出せない)、沢山の医学生に1杯ずつ水割りが与えられて、私とK先生が1万円ずつ出して、その場を去った。(K先生は、バイトを下の医局員には積極的にさせていたのに、K先生はせず、お金に窮していたのを周りの人はよく知っていた)
 心臓のカンファランスで、今までの同じ様な手術実績から、上手く行かない確率が高いと予想される症例が呈示された。ある心臓外科医が、「今度は上手く行くかも知れないから、してみたい」と言う意味のことを言った。その時だった、いつも柔和な顔をされているK先生が、すかさず、「患者さんの命をどう考えているのか!」と言って、一喝した。その時、ここに素晴らしい医師がいると感じて、私は深く感動した。
 K先生、その後教授になり、病院長になり(K先生自身は、臨床が好きで、病院長などなりたくなかったのだが、周囲の強い希望でやむなくなっていた)、(当然)次期学長とまで言われていたが、残念なことに、急に病気で亡くなられた。その亡くなり方にしても、K先生の生き方が現れていた。
 小児の外科の救急疾患では、いつも気軽にテキパキと小児科医の要求に応じて手術してもらっていたのだが、K先生自身が具合が悪くなった時、時間外で大変だろうと思って遠慮して、直ぐに病院に行かなかった。それが災いして、翌朝、帰らぬ人になってしまった。K先生は、終始、他人に寛容で自分に厳しい至誠を保たれていた。
 このK先生の最も素晴らしいこと、それは、先生自身が、自分の自慢話を決してしようとしなかったことだ。
 現在、時に、時間にル一ズなドクタ一、約束を守らないドクタ一、他人に仕事を押しつけるドクタ一、人の悪口ばかり言うドクタ一、自慢ばかりするドクタ一、金にきたないドクタ一、肩書きを気にするドクタ一を見かけることがあります。品がないと思います。K先生程には自分はなれないですが、少しでもそれに近づける様に、努力して行きたいと思っています。



  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

為になるかも知れない本(その210)

2007-09-15 08:49:43 | Weblog
○昭和59年3月17日(土)晴。
 250程来た。何故こんなに多いのかなあ?お金が安いからかなあ?よく治るからかなあ?県病や大学に紹介して行った人、又そこに行こうとなかなかしない。やはり、ここの方が人間的だと思う。ここは、開業医的要素を持った病院なのだ。何故なら、医者が常に同じだから。月曜は、今まで一番多くなるかも知れないなあ。今日は、本当は、○○先生が代診で来る予定だったが、彼が嘔吐下痢になって、来れなかった。明日、結婚式と言うのに。
○昭和59年3月18日(日)晴。
 朝3時に、○○医院からけいれん重積の紹介が来て、眠たかった。結婚式があって、上手に祝辞が言えた。全く上がらなかった。これも経験だなあ。キャンドルサ一ビスの時に流れた鳥の詩の曲、良かったなあ。
○昭和59年3月19日(月)雨。
 何と280人来た。今までの最高だった。自分1人でよくやっていると思う。しかし、これが限界だなあ。これ以上多くなって事故が起きれば、今までの努力が水の泡となる。何にでも限界はある。このままで行けば、自分の体がオ一バ一ヒ一トしてしまう。
○昭和59年3月21日(水)雨。
 半ドンの日なのに、200人以上来た。ベッドもないし、スタッフも限界だ。どうして自分はこんなに頑張れるのだろうか?自分でも分からない。しかし、この先、ガタッと来そうだなあ。
○昭和59年3月26日(月)晴。
 240人来た。(土曜の夕方から来てもらって)休んだので、少し元気になって、結構速く診れた。自分は直ぐに眠れないタイプだから、本当は、救急の医者には向いていないのかも知れないが。宮医大の○○先生から電話があって、○○先生、学位を今度取るとのこと。僕は、何故か、学位に興味がない。(ここに就職して、○○医大の○○教授からも、学位がいるならとテ一マまで与えられてその誘いがあったが、無視してしまった)
○昭和59年3月28日(水)晴。
 ○○君が来た。リウマチ熱の子で、宮崎の時に僕が主治医で、僕に付いて作文を書いて、それが新聞に載っていた。九大の農学部に合格したとのこと。前も顔付きが賢そうだったが、前と又顔付きがそれなりに変わってとても賢そうに感じだ。それにしても、わざわざ佐伯までよく来てくれたなあ。
○昭和59年3月29日(木)晴。
 熱が下がらず4カ月の子がけいれんで来院した。何かなあ?医師会の総会があって出席したら、西田病院からは、池田先生しか出席していなかった。○○会の人が深夜の24:00までいて、話した(こちらの事情を無視する感じで、しつこいなあと思ったが、ちゃんとした小児科医がどうしても永いこと確保できなくて、本当に困っている様子であった)。
○昭和59年4月1日(日)晴。
 (○○先生から、土曜の夕方から24時間来てもらって)県医師会での小児科の学会に行った。10:00と思っていたが、10:40から総会が始まった。昼は、中津の坪井先生(部長)や県病の東保先生(部長)と一緒になってカレ一を食べた。坪井先生の国立中津病院、多い時には、小児科入院が60人も入院しているとのこと!とても忙しそうだ。(国立中津病院、今は、市民病院になっている)


  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

ドクタ一の机の上の整理

2007-09-15 08:43:29 | Weblog
 ○○県の○○病院にいた時に、自分の前に机を並べていた○科の部長、本を積み上げていて、かろうじて向こうが見えていた。ある人に言わせると、私が来るので、それでも少し片付けたらしい。
 又、その病院でのある数人のドクタ一のみが占領している小部屋、そこの先生の1人に用事があって初めて入ったのだが、ゴミ収集場所と間違える程、先の○科の先生以上に、どの机も高々と本が積み立てていた。
 どこの病院でも、このケ一スはある様で、当院でも、似た感じに机がなっているのがあるが。
 又、大分県のある病院勤務の時、整形外科の先生だったが、ゴミ一つなく、常に机の上がきれいだった(きれい過ぎた)。朝は、早く来て、勉強されていた。そんな素敵な先生を女性が見逃す訳がなく、同じ病院の素敵な女性と結婚された。で、今は、開業されて大いに繁盛されている。
 女性の机の前は、おおむね、きれいなことが多い。ところが、どうしたことか、私の次女は、部屋を片付けるのが苦手な様で、反対に、長男はきれい好き。どうしてこうなるのか不思議である。家内は、とてもきれい好きで常に片付けている。私も、まあまあきれい好きで、時々、何がきっかけかになるのか自分でも分からないが、徹底的に片付ける。
 思うに、要らないものは捨てるか、リサイクルに出す。そして何よりもあまり必要としないものは、初めから買おうとしないことである。
 冷蔵庫の中、今、とてもきれいになっている。どうも、片付けと自分の心の動きがある程度平行している気もする。落ち込んでいる時は、確かに、部屋が汚くなっているし、冷蔵庫の中も、賞味期限を越えたのが多くなる。


  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

品格

2007-09-15 08:38:38 | Weblog
 上品な女性は、
・礼状が書ける
・流行に飛びつかない
・約束をきちんと守る
・得意料理を持つ
・至誠を正しく保つ
・贅肉をつけない
・人に擦り寄らない
・良いことを隠れてする
・品格のある男性を育てる
・恋を直ぐに打ち明けない
・無料のものをもらわない
・プライバシ一を詮索しない
・思い出の品を大事にする
・型通りの挨拶が出来る
・愛されるよりも愛する女性になる
・花の名前を知っている
・長い人間関係を大切にする
 
 以上は、昭和女子大学学長の坂東眞理子著の「女性の品格」(PHP研究会出版)からのもの。
 女性に限らず、男性、政治家、相撲取りなどのプロのスポ一ツ選手、教師、医師、芸術家、皆、品格がそれなりに大切ですね。昨今、日本人の品格、少し落ちている気がしていますが。

 ところで、三菱重工業は14日午前10時31分、宇宙航空研究開発機構の月周回衛星「かぐや」を搭載した大型ロケット「H2A」13号機を、鹿児島県南種子町の種子島宇宙センターから打ち上げた。初の民間開発で、アメリカのアポロ以来の本格的な月探索で、世界中が注目している。
 今回の打ち上げ費用は、宇宙機構の時とほぼ同じ約110億円。「かぐや」は太平洋のチリ沖上空約390キロ・メートルでロケットから分離し、地球を回る長円軌道に入った。約5日かけて地球を2周した後、地球から38万キロ・メートル離れた月へ向かう。「かぐや」は、重量3トンの主衛星と、いずれも50キロ・グラムの2基の子衛星で構成され、開発費は約320億円。約20日後には月周回軌道に達して2基の子衛星を分離、エックス線や赤外線など14種類にも上る観測機器の調整などを行う。月の元素や鉱物の分布、地形や重力などの観測を始めるのは12月になる見通しで、それから約10か月にわたって月の起源や進化の秘密に迫るデータを集める。今回の打ち上げを含め、H2Aロケットは05年2月以降、7回連続で打ち上げに成功したことになる。
 これで、アメリカのいいなりになっていた日本の国の品格も、少し上がりそうだなあ。


  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

江戸しぐさ

2007-09-14 11:48:21 | Weblog
 江戸の町は、18世紀にはその人口140万人に達し、当時世界最大の都市となっていた。その人口密度は現在の東京よりも、なお高かった。江戸の市街地の大半は武家の住居により占められていたので、江戸の人口の大半を占める町民は限られた地域にひしめき合っていたことになる。町人地の人口密度は現在の豊島区の3倍にも達していたほどであった。そんな暮らしぶりではあったが、江戸の町民はこんな江戸の生活を結構楽しんでいたようなのだ。徳川の御世は260年続いたが、これは幕府の強権的な支配によって、維持されたというより、町民がこのお江戸が居心地よく、この環境を町民自ら求めたからにほかならない。

 江戸っ子は三代続いて、はじめて江戸っ子とよく言われる。そもそも、江戸の町の成立の経過からして、土着の江戸っ子などはいないのであって、江戸の人々は元はといえば各地から集まった人たちなのだ。そこで、三代かけて磨き上げなければならない江戸っ子の気質こそが、「江戸しぐさ」と呼ばれるものなのである。江戸っ子は自分の見識を尊重した。相手を思いやる事を第一義とした。自分を磨き、そして相手を尊重すること、身分や血筋、門閥に捕らわれず、自由な発想が出来る人間を「江戸っ子」として認めたのである。ここには、江戸時代という封建制のなかにあっても、それに拘束されない、自由人たる江戸っ子の生き様が見えてくる。

 「三つ心、六つ躾、九つ言葉、十二文、十五理で末決まる」といって子供を教育した。三歳までに素直な心を、6歳になるとその振る舞いに節度をもたせ、9歳では人様の前でも恥ずかしくない言葉遣いを覚えさせ、12歳ではきちんとした文章が書けるようにさせ、15歳にもなると物の道理がわかるようにしなければならないというものであろう。この教えは現代にも通用する教育論である。

 「お心肥やし」。江戸っ子は教養豊かでなければならないということをこう呼んだ。ここでいう教養とは読み書き算盤のほか、人格を磨く事が何よりも大切なのだという意味合いが強く込められている。

 「打てば響く」。江戸っ子はすばやく対応することを身上とした。当意即妙の掛け合い、初対面で相手を見抜く眼力など、その切れ味が真骨頂とされた。

 「三脱の教え」。初対面の人に年齢、職業、地位を聞かないルールがあった。これなどは身分制度を全く意識させない教えであり、相手を思いやる心と、人を肩書きだけでは判断しないという、何事にも捉われない意気込みがみてとれる。

 「時泥棒」。江戸城の時計は一分の狂いもない正確なものであった。このため、幕府に仕えている武士ばかりではなく、商人たちも時間には厳しかった。現代でもまったく、同じことなのだが、都会人のマナーというべきであろう。

 「はいはい」。物事を頼まれた時の返事は「はい」の一言でよい。一人前の大人に返事を繰り返すことは、目上の人に向かって念をおす行為と受けとられ、してはならない失礼とされていた。

 「往来しぐさ」。往来でのマナーのことである。狭い往来をすれ違う時など、ちょっと会釈をし、「肩引き」をして、お互いがぶつからないようにするとか、雨のしずくが相手にかからないように「傘かしげ」をするとかいったような、ちょっとしたエチケットのことをいった。こんな素振りも粋にみえる。

 「指きりげんまん、死んだらごめん」。人間の約束は必ず守るとされた。たとえ文章化されていない口約束でも絶対に守った。「死んだらごめん」とは命にかけて約束を守るということなのだ。

 このように見てくると、江戸っ子が思い描いた「粋な江戸っ子」は歌舞伎の世界で立役として、存分な活躍をしていることがわかる。「暫」での鎌倉権五郎景政、「助六」の助六、「め組み」の辰五郎、などなどである。江戸でもてはやされた「勧進帳」や「仮名手本忠臣蔵」にも江戸の人々は喝采を送った。江戸の心が生きているお芝居なのであるからであろう。「江戸っ子」はじつに素敵な野郎だ。
(越川禮子;「江戸しぐさ」、講談社より)

 大岡越前のテレビドラマで、ある大工が3両の入った財布を落とした。それを別の大工が拾って、そこに入った紙に書かれていた人を捜して届けた。しかし、落とした大工は落としたからと言ってどうしても受け取らず、拾った人に上げると言う。拾った人は(お金がなくて困っているのに)、自分のお金ではないから持ち主が取るのが当然だと言って受け取らない。両方とも、どうしても受け取ろうとしない。その話が江戸中の大衆の間に広がる。で、ある商売人が、その受け取らない大工の所に行って、3両の仕事を頼む。それも目立つ所で。
 多くの人が、どうしても受け取ろうとしない大工を見ようと思って押しかけ、その商売人は大儲け。実は、それを見越してその商売人は、その大工に頼んでいたのだ。そこで、大岡越前が出て来て、その商人を咎める。
 で、その3両、落とした大工に2両戻し、拾った大工にも2両を与える。余分な1両は、大岡越前が出していた。
 昔の江戸っ子の気質、今の日本人と違うなあ。

追加:
江戸に住む町民(一般の商人)の居心地は、とても良く、もしもその時代にいたとしたら、上流階級であればイギリスのロンドンに、中流階級であれば江戸が最適であったらしい。
 町民は、地主が経営する長屋に住んでいた。家賃が一日働けば払えるほどで、借りられていた。今で言えば1Kで、トイレや風呂は共同であり、そこではお互いに助け合っていた。(「うかつあやまり」と言って、例えば)足を踏んでも、足を出した方が誤る感じで、もちろん、踏んだ方も深く誤り、そこでは、お互いに相手のことを思いやる気持ちが生まれ、今の日本人が見習うべき江戸っ子気質が育っていった。人間を「じんかん」と読み、人とは人同士の間にあってお互いが深い関係を持って生きていて、自分も他人も同時に良くて本当の幸せと言った考えを持っていた。
 地主は、大きな出費が3つあり、防災と水道代と祭り代であった。それに関しては、地主が持つ長屋に住む町人は、払わなくよかった。
 町人は、武士と違って、お金はなくても(事実、お金を持っていなかったが、何ら心配していなかった)、仕事はどんどんくるので、経済的な心配はなかった。
 江戸の華は火災で、2~3年毎に大きな火災が江戸のアチコチであり、それに関して悲観的になる江戸っ子はいなくて、火災が起きる度に、公共事業で、江戸はどんどん大きくなっていった(300町が1700町に)。
 平均寿命は40歳余しかなかったので、60歳以上の人は、ご隠居さんと言って、周囲から大切にされた。

  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする