前回の続きです。
「6年3組は,~なクラスになろう!」
これは,よく言う評価の観点で言うならば「意欲・態度」面のことになります。
どの教科にもこの観点があって,「何にでも意欲的で,積極的に取り組む子どもに」なんて目標が掲げられています。
私は,最近これにも違和感を感じます。
「何にでも意欲的で,積極的に取り組む子ども」って,変じゃないだろうか。
そんな人間,不自然に思いませんか…
だれにでも,関心のあること,ないこと
意欲的になれること,なれないこと
あって当然だし,「ないこと」をダメとするのは,いかがなものでしょうか。
確かに「ないこと」だらけの子だったら,「もうちょっとがんばろうよ」と諭したくはなりますが,そもそも「意欲・態度」をすべての分野で評価しようとすること自体に,最近は疑問を感じます。
学級経営の話に戻すと,
その「意欲・態度」面を学級で統一しようとするならば,それはやっぱり変なこととも言えるでしょう。
「誰とでも仲良くできるクラスになろう」
それが本当に苦手で,それを望んでいない子もいるのでは…
「夢を大きく描くクラスになろう」
まだ夢を描けない,将来のことを考えられない子はダメなんですか…
屁理屈染みた考えが浮かんでしまいます。
もちろん,クラスの価値観として挙げるものは,いい言葉ばかりです。
本当に子どもが,クラスがそうなれるならば,とてもうれしいことです。
だけど,問題は,とてもうれしいことだからといって,それを強引にクラス全員の子に当てはめてしまうことです。
以前,私は当てはめていました。
「~なクラスをつくろう!」を合言葉に,ガンガンとやっていました。
でも,今思うように,そこに疑問を感じないのは,私が未熟だったからということだけでなく,
「それで,子どもたちが満足していた」
から。
そんな一面もあるように感じます。
まだ自立できていない,自己のアイデンティティも定まらない子どもたちにとっては,そういう価値観でまとめられた集団にいることは,ある種の気楽さを感じるのかもしれません。
みんなが同じベクトルをもっている状況というのは,居心地のいいものです。
幼い子どもたちがそれに疑問を投げかけるはずはなく,担任のリーダーシップが強烈であるならば,自然とそこに乗っかるものです。
そして,そんな子どもたちを率いて,担任は
「学級をまとめている」
と,感じる。
(何か宗教的なものを感じるなぁ)
またまた文章が,考えがまとまりませんが,そういう学級経営の仕方を真っ向から否定しはしません。
私もきっとそうしてきた派でしょうし,それができる先生っていうのは,ある種の力のある先生だとも言えるでしょう。
「学級をまとめられない」先生に比べれば,立派なものです。
でも私自身,こんなことも考えるようになり,また今後の学級経営の在り方を模索していこうと思います。
教室には,子ども個々の人格がある。
子ども個々の学びがあり,個々の成長がある。
それがたくさん集まって,クラスという集団になっている。
じゃあ,クラスとしてどんな価値観をもつべきなのだろうか。
少なくとも今思いつくのは
子ども個々の成長を促す学級経営であるべき!
ということです。
結局,当たり前によく耳にする「子どもの個性を大事にする」というところなんですが,それを学級経営の柱に据えるということです。
これはなかなか難しい。
一つの価値観で子ども全員をまとめあげるよりも,何倍も難しいことだと思います。
そして,それができる先生っていうのは,かなりの腕前だと思います。
新たな目標にしたいところです。