「ソロモンの偽証」(宮部みゆき)
この小説にはソロモンというのに御誂え向きな登場人物が一人いる。
転落死した生徒と同い年の少年。
中学2年生、まだ世俗の垢にまみれきってはいないし、彼は正義感あふれ優秀だ。しかも、物語の途中から明らかに、この少年には謎があると伏線が張られるので、裁判(物語)の最期に彼が証言するのは早くから想像できた。
彼がソロモンか?
しかし、巻尾の解説で、松山巌氏は次のように書いている。
「作者本人は権威を持つものが嘘をついている意味、つまり学校組織や社会が嘘をいうこと、あるいは最も正しいことをしようとする者が嘘をつくことだと語っている。要するに、ソロモンの偽証というタイトルは、一つには、体裁のための事件の真実を当初明らかにしなかった学校にも、思い込みで報道したマスコミにも、果たしてその姿勢は正しかったのかと作者は問いかけているのだ。」
しかも、映画のキャッチコピーが「嘘つきは大人のはじまり」とくれば、「ソロモン」とは権威を笠に着て人を裁く側の人間の総称で、「偽証」とは大人が都合よく吐く嘘ということになる。
作者自身はインタビューに答えて、
「最も知恵ある者が嘘をついた。
最も権威や権力をもつ者が嘘をついた。
最も正しいことをしようとする者が嘘をついた。そのどれなのかなということを読者自身で探って欲しい。」と言っている。
作者が「読者自身で探って欲しい」と言ってるので、考える。
私のように最初からソロモンは全き正しい人なのかという疑念を抱いておれば、学校を含む体制や胡散臭いマスコミをソロモンと位置付けることもできるが、とりあえずソロモンを全き正しい人だと規定すると、学校を含む体制側やマスコミをソロモンだと思える人がどれくらいいるだろうか。
学校が保身に走って正確な情報を良心的に提示しないのは周知の事実だし、マスコミが良心の欠片もなく煽情的な記事を垂れ流しているのも周知の事実だ。
そんな学校やマスコミをソロモンに例えて、彼らが嘘を言った!とわざわざ題名にしなければならないのか、俄かには信じがたい。
そこで考えるのが、中学生が刑事裁判をするという設定の無理を押してでも、中学生を物語の真ん中に置いたのは何故かということだ。
情報化社会の波に小さい頃から揉まれている現代の中学生は、自分の立ち位置(キャラ)を演じて小利口に振る舞う癖がついているように見受けられることがある。
とはいっても、まだ中学生ならば、純粋に良いものに惹かれ、より良い自分でありたいと願っている、と思う、多分。
神から「何でも欲しいものを述べよ」と言われて、「知恵」を望んだソロモンの純粋さが、まだしも残っているのが中学生という年頃だと思うのだ。
これより年を食うと世慣れてくるし、これより小さいと単純で幼いだけということになりかねない。
「偽証」というのも一般的には、客観的事実に反したことを述べる事だと思われがちだが、刑事裁判で「偽証」といえば記憶に反した陳述をいう、つまり仮に証言内容が客観的事実に合致していても、それが自分の記憶に反しておれば「偽証罪」に問われるのだ。
この小説では、思春期の子供の心のひだがかなり丁寧に描かれている。
学校をとりまく現象の一つ一つについて、客観的事実とそれに対する自分の心の変遷(事実を知覚・記憶・叙述)を子供なりに冷静におっている過程が丁寧に書かれている。
自分が置かれている境遇や社会に全く疑問を感じることない太平楽な子供時代ならいざしらず、中学生ともなれば、そこそこ色々見えてくる。
事実と心を単純に天秤に掛けられればよいが、辛い経験をやり過ごし、見て見ぬふりをする狡さを身に着けるには、記憶を少しずつ都合よく改竄するしか仕方ないときがあると思うのだ。
より正しい人間でいたいというソロモン的願いと、少しずつ記憶を違えなければやり過ごせない何かを知ってしまう、その狭間の年齢が中学時代ではないかと考えた時、作者の真意はさておき、中学生を真ん中に置いた物語の題名が「ソロモンの偽証」であることに、かってに答えを見つけた気になっている。
ところで、この小説の感想を書くきっかけとなったのは、敬宮愛子様の学習院でのチェロの演奏会だと書いた(祝速報4/12、ソロモンと偽証がさすもの4/13)。
そのあたりは又、つづく
この小説にはソロモンというのに御誂え向きな登場人物が一人いる。
転落死した生徒と同い年の少年。
中学2年生、まだ世俗の垢にまみれきってはいないし、彼は正義感あふれ優秀だ。しかも、物語の途中から明らかに、この少年には謎があると伏線が張られるので、裁判(物語)の最期に彼が証言するのは早くから想像できた。
彼がソロモンか?
しかし、巻尾の解説で、松山巌氏は次のように書いている。
「作者本人は権威を持つものが嘘をついている意味、つまり学校組織や社会が嘘をいうこと、あるいは最も正しいことをしようとする者が嘘をつくことだと語っている。要するに、ソロモンの偽証というタイトルは、一つには、体裁のための事件の真実を当初明らかにしなかった学校にも、思い込みで報道したマスコミにも、果たしてその姿勢は正しかったのかと作者は問いかけているのだ。」
しかも、映画のキャッチコピーが「嘘つきは大人のはじまり」とくれば、「ソロモン」とは権威を笠に着て人を裁く側の人間の総称で、「偽証」とは大人が都合よく吐く嘘ということになる。
作者自身はインタビューに答えて、
「最も知恵ある者が嘘をついた。
最も権威や権力をもつ者が嘘をついた。
最も正しいことをしようとする者が嘘をついた。そのどれなのかなということを読者自身で探って欲しい。」と言っている。
作者が「読者自身で探って欲しい」と言ってるので、考える。
私のように最初からソロモンは全き正しい人なのかという疑念を抱いておれば、学校を含む体制や胡散臭いマスコミをソロモンと位置付けることもできるが、とりあえずソロモンを全き正しい人だと規定すると、学校を含む体制側やマスコミをソロモンだと思える人がどれくらいいるだろうか。
学校が保身に走って正確な情報を良心的に提示しないのは周知の事実だし、マスコミが良心の欠片もなく煽情的な記事を垂れ流しているのも周知の事実だ。
そんな学校やマスコミをソロモンに例えて、彼らが嘘を言った!とわざわざ題名にしなければならないのか、俄かには信じがたい。
そこで考えるのが、中学生が刑事裁判をするという設定の無理を押してでも、中学生を物語の真ん中に置いたのは何故かということだ。
情報化社会の波に小さい頃から揉まれている現代の中学生は、自分の立ち位置(キャラ)を演じて小利口に振る舞う癖がついているように見受けられることがある。
とはいっても、まだ中学生ならば、純粋に良いものに惹かれ、より良い自分でありたいと願っている、と思う、多分。
神から「何でも欲しいものを述べよ」と言われて、「知恵」を望んだソロモンの純粋さが、まだしも残っているのが中学生という年頃だと思うのだ。
これより年を食うと世慣れてくるし、これより小さいと単純で幼いだけということになりかねない。
「偽証」というのも一般的には、客観的事実に反したことを述べる事だと思われがちだが、刑事裁判で「偽証」といえば記憶に反した陳述をいう、つまり仮に証言内容が客観的事実に合致していても、それが自分の記憶に反しておれば「偽証罪」に問われるのだ。
この小説では、思春期の子供の心のひだがかなり丁寧に描かれている。
学校をとりまく現象の一つ一つについて、客観的事実とそれに対する自分の心の変遷(事実を知覚・記憶・叙述)を子供なりに冷静におっている過程が丁寧に書かれている。
自分が置かれている境遇や社会に全く疑問を感じることない太平楽な子供時代ならいざしらず、中学生ともなれば、そこそこ色々見えてくる。
事実と心を単純に天秤に掛けられればよいが、辛い経験をやり過ごし、見て見ぬふりをする狡さを身に着けるには、記憶を少しずつ都合よく改竄するしか仕方ないときがあると思うのだ。
より正しい人間でいたいというソロモン的願いと、少しずつ記憶を違えなければやり過ごせない何かを知ってしまう、その狭間の年齢が中学時代ではないかと考えた時、作者の真意はさておき、中学生を真ん中に置いた物語の題名が「ソロモンの偽証」であることに、かってに答えを見つけた気になっている。
ところで、この小説の感想を書くきっかけとなったのは、敬宮愛子様の学習院でのチェロの演奏会だと書いた(祝速報4/12、ソロモンと偽証がさすもの4/13)。
そのあたりは又、つづく